田園都市は「自給自足」ではない

 
(前回の「無人のモール内に響く音楽」の記事(の後半)の続き。)
 
この(下記の)「はてなでハワードの田園都市論は自給自足と関係ないと強弁してた人」は僕の事ですね。

GertieTime(GertieTime)
深夜だし、TLにこっそり『都市と消費とディズニーの夢』の援護射撃をしておこうwというかそこはブレてほしくないのよ。この書物のいいところなんだから。はてなでハワードの田園都市論は自給自足と関係ないと強弁してた人がいるけど、それはあまりに一面的だと思う。

GertieTime(GertieTime)
『明日の田園都市』には農地の人がそこで生産してその場所だけで消費してしまう「自給自足」が高速鉄道で変化し、遠くの人にももっと生産物を売れる点に言及しているから、ここだけ引用すると「自給自足」を単純に否定しているように読めてしまう。でもこの本には続きがある。

GertieTime(GertieTime)
高速鉄道によって農地から生産物を運ぶのでなく、働く人を都市へ運ぶほうが効率的だという着眼点が『明日の田園都市』のコペルニクス的転換。都市は働く場所で、住む場所は農地のそばにするということ。つまり人の流れの革新によって新しい農地の「自給自足」を提案したと考えることもできる。

GertieTime(GertieTime)
エプコット構想はこれを拡大化して、働く場所と住む場所、ひいては育む場所と遊ぶ場所と食糧生産さえもコンパクト化し「自給自足」の観点をひろげた。この繋がりを明瞭に描いていることは論旨として正しいし、評価されるべきだと思う。

ま、一応、僕もここで「こっそり」この方に反論しておきますけど、この方(GertieTime氏)は僕のその当該記事をちゃんと読んだのだろうか?

僕はこのブログ(「未発育都市」)のその「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する」(2012年8月14日)の批判記事で、「エベネザー・ハワードはコミュニティを重視した社会主義者ではあるけど、エベネザー・ハワードが理想とする社会を実現するために「市場原理」を徹底的に利用している(「市場原理」の上に理想社会を冠している)のです。」とはっきり書いています。田園都市構想では、エベネザー・ハワードは「市場原理」(自由の原則)を利用する事で、「自給自足」を“促す”仕組みにしているけど、その記事でエベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)から少し引用したように、エベネザー・ハワードははっきりと「農民やその他のものは、生産物の市場をその町に限定されるわけではない。この人たちは誰にでも自由に販売する完全な権利をもっているのである。」(P.95)と書いています。エベネザー・ハワードが「自給自足」を批判しているのは明らかでしょう。

エベネザー・ハワードの田園都市は、ハワード以前の時代(19世紀の中頃)に構想された理想都市(モデル都市)への批判(と反省)の上に構想されているのです。例えば、前述のエベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)では、J.S.バッキンガム(James Silk Buckingham)の理想都市「ヴィクトリア」(Victoria、1849年)に対して、「<田園都市>の住民は、自由結合の権利を最大限に享受し、個人的そして協同的な仕事と努力の最も変化に富んだ形態を示しているのに対して、バッキンガムの都市の構成員は、堅い鋳鉄製の組織の紐帯によって拘束され」ている(P.207)と厳しく批判しています。また、前に(僕の)別ブログの「明日の田園都市」の記事で僕はエベネザー・ハワード著「明日の田園都市」の冒頭の「著者の序論」を引用した後で、「(前略)「明日の田園都市」の冒頭(「著者の序論」)の引用から、ハワードは「ある意味でポストモダンなその地点から出発」*1した、とは言える。もちろん、「ポストモダンな状況」の定義にもよるだろうけど、では、その状況から、ハワードは「新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして」*2見出したのだろうか。」とも書いています。

ま、もっと分かりやすく書くと、前に(僕の)別ブログの「明日の田園都市」の記事で少し書いたように、エベネザー・ハワードが田園都市を考案した19世紀末(19世紀の終わり頃)とは、「1891年にローマ法王レオ13世は、回勅「レールム・ノヴァルム」で、19世紀末のヨーロッパが直面している諸問題を、「資本主義の弊害と社会主義の幻想」と表現した」(宇沢弘文)ような時代だったのです。エベネザー・ハワードはコミュニティを重視した社会主義者であったけど、「社会主義の幻想」は全く信じていなかった。一方で、「資本主義の弊害」(とくに大都市ロンドンの過密(一極集中)の問題となって現れた)は深刻で解決されなければならない、と考えていたのです。そこからエベネザー・ハワードは、前述の(僕の)別ブログの「明日の田園都市」の記事の次の「明日の田園都市-2」の記事で少し引用したように、エベネザー・ハワードは社会主義か資本主義かのどちらかの陣営に立つ事ではなくて、「オルタナティブ」(第三の道)の可能性として「田園都市」を考案したのです。

「自給自足」といった牧歌的なキーワードによって「19世紀の中頃」と「19世紀の終わり頃」の違いとその機微を消去させてはなりません。都市史(歴史)とはアイデアの宝庫であり、現代の私たちの社会を豊かにするために存在しているのです。よって、要約するに当たっても、エベネザー・ハワードは「自給自足」を批判している、としなければならないのです。また、前に本ブログの「TPPの賛否」の記事で、「過剰に法規制することで外形(輪郭線)を取り繕おうとするのは下の下の下策です。」、「尚更、都市の具体的な「土地」や「物理」と関わったほうがよい。」と書いたのだけど、これの“元ネタ”はエベネザー・ハワードの田園都市なのです。と言うか、これは僕がエベネザー・ハワードから教わった事なのです。*3(ついでに、その記事で書いたTPP参加の是非についてはこれから国会で審議されるらしいけど、エベネザー・ハワードならTPP参加に絶対に反対しませんね。でも、GertieTime氏のように、エベネザー・ハワードは「自給自足」を提案した人だと要約すると、エベネザー・ハワードならTPP参加に反対すると想定されてしまうでしょう。よって、僕の要約が正しい。エベネザー・ハワードは「自給自足」を批判しているのです。)

以上です。

ま、いずれにせよ、「こっそり」だろうと何だろうと、批判する前にちゃんと僕の批判記事をよく読んで下さい。それくらいの作法はあっても良いのではないか。でも、今回の件に関するツイッターでの反応を眺めていると、その多くは感情の発現で、一体どうなる事やらと少し不安に思っていたのだけど、GertieTime氏の(上記の)ツイートを読んでみて、正直、少しほっとしました(ははっw)。GertieTime氏はよく分かっていらっしゃるし、何も間違っていないのだけど、ま、それでも、やはり、要約の仕方としては全く不適切である(理はない)と言わざるを得ません。ではまた。

【補足】

あとついでに、前述のGertieTime氏は、このTwitlonger(2012年8月15日)で、速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」(2012年)を半分、批判しています。少し引用すると、「致命的な悪いところ」として「エプコット構想を閉鎖的で矮小化させたものにしている。」という点をあげて、「次にこの書物の致命的な誤りを述べます。ウォルトディズニーがエプコット構想を「飛行機」でしか行けないような地域に限定隔離することで移民対策や犯罪者流入を防いだと我田引水している点です(92〜94頁)。どうやら速水氏はエプコット構想が単一でローカルなものであると考えているようです。」と批判しています。これは僕が「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する」(2012年8月14日)の批判記事で、「(前略)ひどい。信じられません。念のため、書いておくけど、上記の「外の都市との行き来のための唯一の手段は、都市の中に存在する空港で発着する高速ジェット機です。」は事実ではありません。(中略)最初から高速道路と接続する計画だったのです。著者(速水健朗)は、ウォルト・ディズニーに対する「敵意」が強すぎるために、「現実」を見る事ができなくなっているのです。」と書いて指摘した箇所と同じです。また、その記事に載せた「Walt Disney's Original Plan for EPCOT」(1966年)の動画(→Part 2)の30秒頃から、ウォルト・ディズニーははっきりと観光客が「自動車」で訪れやすいような場所(立地)を選んだ、と語っています。著者(速水健朗)はニール・ガブラー著「創造の狂気――ウォルト・ディズニー」という本を参考にしたらしいのだけど、逆に、僕はこの著者もこの本も全く知らないので何とも言えません(ははっ…)。真犯人はニール・ガブラーかな。

【おまけ】

テレビ番組「The One Show」(英BBC)の「Short film about Letchworth Garden City」(2009年放送、→下の動画)より。レッチワース(Letchworth)は、エベネザー・ハワードによって建設された最初の「田園都市」です。実質的に、田園都市レッチワースは「工場都市」です。*4

*1:「(前略)十九世紀初めの頃は、規範がなくなったから何でも自由にできるという楽観が強かった。それに対し、一八四八年の二月革命から五一年のルイ・ナポレオンのクー・デタに至るプロセスを経て、規範がなくて何でもできるが故に何をやっても意味がない、何もできないということになり、ある意味でポストモダンなその地点から出発するのが真正のモダニズムであるということになった。マルクスその人も、そういう場所から出発したはずです。」、「中央公論2010年1月号」(2010年)の「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦浅田彰)より。詳しくは、(僕の)別ブログの「十九世紀の罠」の記事参照

*2:「(前略)あらゆる秩序を無に帰した後で、新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして見出せるのか――われわれはそれを、ルソーのお陰で知ってるのだから。」、クロード・レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯II」(1955年)の第9部「回帰」より。詳しくは、(僕の)別ブログの「メモ-2」の記事参照

*3:本ブログの「返信――前回の「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢を批判する」の記事への著者からのコメントを読んで」の記事参照(「エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(中略)は21世紀初頭の今こそ読みなおされるべきだ」)

*4:(僕の)別ブログの「ノエル」の記事参照(「田園都市の自立性を支えるのは雇用の場としての工場の立地である。(後略)」、日端康雄著「都市計画の世界史」)