新国立競技場について(建築家・森山高至さんへの反論、東京新聞の偏向報道について、など)

約一月前に「新国立競技場は建築設計コンペで最優秀賞に決定したザハ・ハディド案で建てなければならない――建築家の槇文彦氏を批判する」というブログ記事を僕は書いた。そして、これがBLOGOSに掲載されるや否や、思ってもいなかったような大きな関心を呼んだので、正直、かなり驚いた。更に、某出版社から取材の依頼が来るなどの謎めいた展開になって、匿名ブロガーの僕としてはちょっときついかもです(笑)。ま、いずれにせよ、その背景となっている理由などは後述するが、改めてBLOGOSの影響力を実感した次第です。(尚、その記事に関するツイッターでのやりとりは「新国立競技場はザハ・ハディド案で――建築家の槇文彦氏を批判する、へのコメント」のtogetterにまとめた。)

さて、3日前(7月20日)に「「新国立競技場は建築基準法に違反してしまう」 建築家・森山高至さんが指摘する「基本計画案」の問題点」というインタビュー記事がBLOGOSに掲載された。 建築家・森山高至さんとは今回の「新国立競技場」の騒動が始まるずっと以前からツイッターで懇意にさせて頂いているのだが(とても尊敬しています)、私心はともかく、簡潔に反論しておきます。

まず第一に「新国立競技場は建築基準法に違反してしまう」という指摘については、その記事の意見欄でk_endoさんが述べているように「エントリ主は、如何にもこのままでは違反建築物が建築されるような印象を与えておりますが、まだ計画通知も提出、審査されていない状況において、違反性を喧伝するのは言い過ぎ」であると僕も思います。また、建築家の奥野正美さん(@okunoao)はツイッターで「屋根の不燃性と建ぺい率か。その程度のことなら、大臣認定、性能検証法、都市計画の変更等で対応可能」と述べています。その通りだと思います。ま、屋根の不燃性に関してはまだちょっと未知数なところがありますが、建ぺい率(人工地盤)の問題についてはすぐ解決できるでしょう。


新国立競技場完成予想図(案)

そして第二に森山さんがその記事で「古い施設を再利用してはどうか」と提案されていることについてです。これは現在建っている「国立競技場」(1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された)を改修して使ってはどうかという提案なのですが、はっきり言って無理です。ツイッターでは@gelsyさんが割と早い時期から「無理ゲー」であると述べています。また、建築家の片山惠仁さん(@YOSHIMASAKATAYA)もツイッターで「日経アーキに国立競技場が載っていたが。既存の躯体の中性化反応をみるとかぶり部分が全てフェノール反応しちゃう感じの写真が掲載されてて、一寸なんなのこれ」と述べています。また更に、k_wotaさんもツイッターで「日経アーキの7月10日号 『特集 迷走「新国立」の行方』が出て以来、建築関係者には「現国立を改修して使うとか、絶対に無いな」というのは、ほぼほぼコンセンサスとなった気がする。一般の人にも伝えたほうが良いと思うのだが、さて。」と述べています。


日経ア−キテクチュア(7月10日号)の表紙(左)、久米設計による改修案(右)

「国立競技場」の改修案については、2011年3月に久米設計が制作していた改修案(PDF)、先々月(5月12日)に建築家の伊東豊雄さんが発表した改修案(PDF)、先月(6月25日)に建築家の大野秀敏さんが発表した改修案(PDF)があるのですが、いずれにせよ、現在の「国立競技場」を改修して使うのはそもそも無理なのです。

ついでに、建築家の大野秀敏さんの改修案は「洋梨」のような大変にユニークな形をしているのですが、@Komabanoさんはツイッターで「Facebook陸上競技場コミュニティで伺ったのですが、やはりそもそもダメなようですね。大野秀敏は投てきや跳躍系の種目を五輪向け改修時の国立で設ける、洋梨の突起部分に置きたいようですが、陸連の規則では「1-2コーナーの外側にフィールド競技施設を置いてはいけない」そうです。……とまあ、こんな感じで、森山高至氏がご推薦の大野秀敏・国立改修案は、実現性に欠けたものという判断になりました。とにかく、陸上競技場を作るのにその基本すら抑えてないのは、根本的にダメでしょう」と述べています。


建築家の大野秀敏さんの改修案

というわけで、森山さんへの反論はここまで。

では次に、冒頭に書いた、僕が一月前に書いたブログ記事が大きな関心を呼んだ理由についてです。僕なりに考えてみたのですが、おそらく「新国立競技場」のザハ・ハディド案を支持(賛成)する意見が「あまりにも少なかった」からだと思います。その理由は大きく2つあると思います。まず第一に世界最高峰クラスの建築家である槇文彦さんが先陣を切ってザハ・ハディド案に反対されたということです。この空気感(ニュアンス)は建築関係者以外の方にはちょっと伝播しづらいかも知れませんが、槇さんと言えば、世界中の建築家や建築学生の「憧れの的」なのです。スーパースターなのです。ま、僕自身はちょっとひねくれ者なので(笑)、どちらかと言えば、レム・コールハースのような「ダーティ」な建築家を好むところがあるのですが、それでも、僕が建築学生だった頃は、槇さんが設計した建築を全国中、見て回ったりしてました。実際に訪れてみて、槇さんが設計した建築の素晴らしさに僕なりにも感動したものです。でも、それゆえに、今回の「新国立競技場」の件に関しては大きな弊害が生じてしまうのですね。

そのことを端的に表現した記述があります。先月(6月25日)に発売された宇野常寛編集『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる7つの対話』の本の4つ目の対談の『2020年・東京デュアルシティ化計画――メガシティの分断が生む新しい公共性』の中で、今回の「新国立競技場」の件について、建築学者の門脇耕三さんはこう述べています。「この問題は、建築界ではほとんど踏み絵のようになっています。あの建物を否定しないと、建築家とは呼ばせないぞという雰囲気。こうしたクリエイティブとは呼びがたい議論には、強烈な違和感を持っています」と。ま、これはあくまでも建築界の空気感(ニュアンス)のことなので、はっきりとした輪郭はないのですが、これが「新国立競技場」のザハ・ハディド案を支持(賛成)する意見が非常に少ない理由の一つであると僕は考えます。

そして第二に、これは一月前のブログ記事で書いたことと少し重なるのですが、いわゆる「左翼系」の新聞メディアの偏向報道のせいです。特に東京新聞がひどいです。@pretty_radioさんは「新国立競技場について一観客の立場から考えるBLOG」の「あまりにも偏った新国立競技場報道」(7月13日)の記事で「(前略)報道機関は異なる立場がある事柄については双方の意見を伝えて有権者に判断の材料を提供するという大切な役割があるのですが、どうも新国立競技場は一方的に叩いていいものという認識があるらしく、反対派の意見ばかりが大きく報道されています。特に東京新聞はまるで活動家の機関紙状態なのが残念でなりません。完全に読者を特定の方向に誘導しています」と述べています。

実際に東京新聞のウェブサイトを確認してみると、「新国立競技場」のザハ・ハディド案に賛成の意見がゼロ(皆無)であることが分かります。賛成の意見は一切、掲載しないのです。まさに「活動家の機関紙状態」ですね。新聞は「社会の公器」であるという意識が東京新聞には全くないのです。もっと言えば、東京新聞には「新国立競技場」のザハ・ハディド案に賛成している市民がいるという前提すらないのでしょう。なぜなら、東京新聞の記事は全てが「新国立競技場の建設を進めたい国&JSC」対「新国立競技場の建設に反対している良識ある建築家&市民」という対立軸で書かれているからです。または、ひょっとしたら東京新聞の中の人は自分たちが偏向報道をしているということに気付いてさえいないのかも知れません。つまり、意識的(戦略的)に偏向報道をしているのではなく、無意識的にやってしまっているのではないかと。もしそうだとしたら、東京新聞の中の人は「ただの馬鹿」であるということになりますけど(笑)。@k_wotaさんもツイッターで「東京新聞は新国立競技場に反対しているのかも知れないが、煽り記事はやめて欲しい」と述べています。というわけで、「新国立競技場」のザハ・ハディド案に賛成の意見を書いた僕のブログ記事を掲載してくれたBLOGOSさんにはとても感謝いたしております。以上です。


新国立競技場基本設計図(案)立面図(PDF

あと、一月前のブログ記事で書いた「新国立競技場」が建設される明治神宮外苑の「景観問題」に関する情報を更新しておく。

7月8日の毎日新聞の朝刊の「都市の美観 誰が景観を決めるのか」の記事はとても良かった。この記事の中で建築史家の五十嵐太郎さんは「運営コストなどでザハ案は無駄が多いと思うが、伝統的な景観といった議論には一切くみしません。せいぜい100年の歴史しかないし、みんなあそこをそんなに大事に思っていたのだろうか」と述べています。また、7月21日に開催された国際シンポジウム「都市と建築の美学――新国立競技場問題を契機に」で建築史家の中谷礼仁さんは「建物、広義の建築文化が共有されることについて考える。歴史的正統性を客観論として根拠化しない。外苑は100年以上前は野っぱらだし、江戸時代はまったく他の用途。都市環境としての共有化は可能だろう」と述べたそうです。両者の考えは割と僕に近いと言えるでしょう(僕の考えは一月前のブログ記事に書いた)。そして言うまでもなく、それらは「新国立競技場」のザハ・ハディド案は「神宮の森」の美観を壊すと異議を唱えた建築家の槇文彦さんの考えとは全く正反対です。いずれにせよ、「景観」とは論理で割り切れる問題ではないので、多様な意見を交えつつ、活発な議論が行われることが最も望ましい、且つ、最も民主主義的に正しいことなのではないかと僕は思います。東京新聞偏向報道は、民主主義が正常に機能することを阻害しているだけです。東京新聞は民主主義の敵です。もはや有害です。

では最後に、イギリスのエコノミスト誌が7月12日号で「新国立競技場」のザハ・ハディド案は五輪終了後には「無用の長物になるだろう」と報じた件について。この記事は「新国立競技場」のザハ・ハディド案の建設の反対の意見としては筋が通っていると思いました。なぜなら、日本橋の上の首都高速道路ホテルオークラの建て替え計画などにも言及しているからです。このイギリスのエコノミスト誌の記事に東京新聞が飛びついたのは言うまでもありませんが(「「バブル想起 五輪終われば無用」 新国立競技場 英誌も警鐘」、東京新聞、7月19日)、一応、日本経済新聞も報じています(「五輪終われば無用の長物 新国立に英メディアも批判」、日本経済新聞、7月18日)。と言うか、日本経済新聞のほうが先ですね、東京新聞日本経済新聞の記事に飛びついたのでしょう(笑)。

しかし、本当に「新国立競技場」のザハ・ハディド案は五輪終了後には「無用の長物」になるのでしょうか。「新国立競技場」は多くの人々がアクセスしやすい東京の都心の一等地に建設されるので、五輪終了後は多種多様なイベントに活用されると僕は思います。例えば、埼玉県さいたま市に建つ「さいたまスーパーアリーナ」(2000年開業)は好調な営業を維持しています。その理由の一つとして「さいたまスーパーアリーナ」が最寄り駅から徒歩1〜2分ほどのところに建っているということが挙げられています。つまり、アクセスが良いのです。詳しいことは「さいたまスーパーアリーナ絶好調 稼働率過去最高76.4%」(東京新聞、2013年12月19日)の記事を参照。また更に、今日では「競技場」を活用した「街づくり」も世界中で行われています。詳しいことは「「サッカースタジアム」を活用した「街づくり」の可能性」のtogetterを参照(僕がまとめた)。ついでに「オリンピックのメインスタジアムのビフォーアフター」のtogetterも参照(これも僕が)。よって、「新国立競技場」が五輪終了後には「無用の長物」になると断定するのは、ちょっと早計すぎると僕は思います。

7月7日に開催されたJSC(日本スポーツ振興センター)による「新国立競技場」に関する非公開の説明会で、建築関連5団体はJSCに質問書を提出しました。その質問書で建築関連5団体は「8万人集客イベントの費用対効果を検討した、需要予測についての資料」の提出をJSCに求めています。現在はJSCからの回答待ちという状況です。もちろん、この需要予測についてJSCはきちんと答えなければなりません。僕は「新国立競技場」のザハ・ハディド案が五輪終了後に「無用の長物」には決してならないと思っていますが、これはその筋の専門家が精査しなければ分かりません。さて、どうでしょうか。(終わり)