速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する

 
今日、速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」(2012年)を読み終えたばかりなのだけど、この本は内容がひどすぎます。怒り心頭です。よって、これからこの本を徹底的に批判しようと思います。今回のブログ記事は、間違いなく長文になるだろうけど、僕の怒りは収まりません。早速、この本への反論を書きます。問答無用です(キリッ)。

では、速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」(2012年)より(下記)。

■ 第一章「競争原理と都市」

 日本では、ショッピングモールの建築様式は、三層ガレリア式と呼ばれる、真ん中が吹き抜けになり、その回廊沿いにショップが軒を連ねる三階建てのものが圧倒的な多数を占めています。しかし、アジアで見られるショッピングモール中でこの様式はスタンダードではありません。
 アジア随一のショッピングモール天国であるマレーシアのクアラルンプールでは、むしろ高層の吹き抜け式が主流です。そして、それは郊外ではなく都心に建っています。(P.50)

(中略)日米では、自動車の普及とショッピングモールが結びついていましたが、現代においてショッピングモールがもっとも多くつくられている中国、東南アジア、またドバイに代表される中東の都市では、その立地は圧倒的に都心が多いです。(P.51)

では、反論を始めます。ま、僕はアジアのショッピングモール事情までは詳しくないけど、ネットで調べてみると、クアラルンプールのショッピングモールで「高層の吹き抜け式」であるのは全体の2〜3割程度です。決して「主流」ではありません。また、「その立地は圧倒的に都心が多い」のは、それらの地域で(日米がかつて経験したような)「郊外化」(スプロール現象)が加速するのは、まさにこれからであるからでしょう*1。都市の発展段階(都市のサイクル仮説等*2)を無視して比較しても、意味はないと思います。ちなみに、中国、東南アジアに進出している日本の某社は、今、それらの地域の「郊外」への出店を進めています。ついでに、僕は某社のショッピングモールの設計(基本設計)の仕事を前にしていたのだけど、少なくともそこでは「三層ガレリア式」という用語は一度も聞いた事(耳学問した事)はありません。どこでそう呼ばれているのだろうか。

 よく、ショッピングモールが駅前の商店街の衰退を加速したと言われますが、そもそもそれは時代考証的に間違っています。駅前商店街の衰退が始まった時期は、一九七〇年代のことで、日本でショッピングモールの建設ラッシュが始まる一九九〇年代とは時間差があります。これをとってみても、両者の因果関係は薄いと言えるでしょう。一九七〇年代に増えたのは、モールではなく、大型スーパーでした。(P.54)

因果関係は薄くありません。1970年代に大型スーパー(ダイエー等)が商店街を衰退させ、1990年代以降に建設されたショッピングモールが「追い討ち」をかけているのです。現在、「ショッピングモールが駅前の商店街の衰退を加速し」ているのは、紛れもない事実です。著者の論理はおかしい。

■ 第二章「ショッピングモールの思想」

 晩年のウォルト・ディズニー(一九〇一〜一九六六)は、熱心にショッピングモールの視察旅行に出かけていました。この時代、まだ歴史の浅い存在であるショッピングモールにウォルトが並々ならぬ関心を寄せていた理由は、晩年のウォルトの夢と結びついています。
 広告デザインの仕事から始まり、アニメーションの制作、テーマパークの運営と、常にクリエイティブな仕事をしてきた彼が最後に手がけようとしていたのは、商品でもコンテンツでもアミューズメント施設でもなく、人々が生活を送る都市そのものを自ら設計し、造成することでした。(P.62)

(中略)しかし、それ以上に、成功を収めた大人物たちには、その成功の先の夢として自らの都市をつくるという野望を抱くケースが多いのでしょう。
 第二次世界大戦末期、ベルリンの司令本部に連合国が迫り、敗戦までは時間の問題という時期のアドルフ・ヒトラーは、自分の執務室にこもり、自らが世界征服の暁に建造しようと夢見ていた世界首都・ゲルマニアに建設する建物のデッサンにいそしんでいました。(P.67)

著者の「悪意」を感じます。著者のこの「悪意」は、橋下徹大阪市長)はヒトラーだ(!)とレッテルを貼ろうとして世間から見放された「自称文化人」達と全く同じです。ひどいです。また、それならば、前に(僕の)別ブログの「明日の田園都市-3」の記事で書いた、理想工業村「ニュー・ラナーク」を建設したイギリスの社会改革家のロバート・オーウェンも、田園都市レッチワース」を建設したエベネザー・ハワードも、アドルフ・ヒトラーのような人物になってしまいます。人々(工場労働者)の生活環境を改善しようという社会主義思想(理想的な工場都市の建設等)が独裁への道(「隷従への道」)であると言うのであれば、そのような説もなくはないけど、それでも、ウォルト・ディズニーアドルフ・ヒトラーは全く関係がありません。やはり、著者の「悪意」しか感じません。

(前略)とはいえ、元々アニメーション映画に熱心に取り組んでいた時代のウォルトは、政治的に偏向のない人物だったようです。(P.72)

(中略)しかし、東西冷戦時代、五〇歳に近づいていたこの頃のウォルトは、筋金入りの保守主義者、共和党支持者になっていました。
(中略)政治的な偏向はないといっても、ウォルトは、元々とても愛国心の強い人物でした。第一次世界大戦中には、祖国を守るために学校を中退し、兵隊に志願したくらいです。といっても、当時のウォルトはまだ一〇代半ばと兵隊として戦える年齢に達していなかったために、赤十字の運転手にしかなれませんでしたが。(P.73)

ここにも(上記だけではない)、著者の「悪意」を感じます。ここまで読んでみて、著者(速水健朗)がウォルト・ディズニーに対しておぞましいほどの「敵意」を抱いているという事はよく分かった(実際にウォルト・ディズニーを批判している「自称文化人」は多い*3)けど、それならば、堂々と、論を構成して批判すべきでしょう。いずれにせよ、著者の批判の仕方はとてもいやらしい。ひどいです。要するに、著者は、ウォルト・ディズニーを批判しておきながら、一方では、批判しているわけではない、という「逃げ道」を作っているのです。二重にひどいです。悪循環の始まりです。


 ディズニーランドが開業したのは、一九五五年のことです。
 ウォルトのアミューズメントパークの構想を、ディズニー・プロダクションの中では、ウォルト以外は誰も本気にしていませんでした。特に兄でありディズニー・プロダクションの経営者だったロイは、まったくウォルトを相手にしませんでした。土地に根付き、来てもらった人たちから入場料を取る遊園地の事業よりも、フィルムをプリントすることで、世界中で公開することができる映画のビジネスの方が、収益が高いと考えていたのです。(P.75)

(中略)開業の日には、テレビのレポーターを務めたのは、俳優時代のロナルド・レーガンでした。当時のレーガンは、映画俳優の仕事を失いつつあった時期で、新しいメディアであるテレビに活躍の場を移し始めていました。レーガンカリフォルニア州知事に立候補し、政治家の道に進むのはこのさらに一〇年と少しのちのことです。ウォルトとロナルドは、同じアイルランド系で赤狩りに通報者として参画した保守主義者同士です。年齢は一〇歳違うものの、共通点の多い両者の接点が、ディズニーランドの開業の日にあるというのは、奇妙な縁を感じるエピソードです。(P.76-77)

ここまでくると、この本が一体何の本であるのか、全く意味が分かりません。この章で著者はしきりにウォルト・ディズニー愛国主義者である、保守主義者であると繰り返して書いているのだけど、そうやってウォルト・ディズニーという人物に対して特定のレッテルを貼ろうとしているのだけど、ま、百歩譲って、それは著者自身のイデオロギー(著者は典型的な「ヘタレ左翼」です)なので別に構わないにしても、この事がこの章の以後(続き)と一切関係してこないのです。不思議な本です。ウォルト・ディズニーにレッテルを貼り続けた(フラグを立てた)後で、それで終わってしまっているのです。著者がウォルト・ディズニーに対して猛烈な「敵意」を抱いている事はよく分かったけど、だから何なのだ(?)と読者は完全に放り出されてしまうのです。

 フロンティアランド、トゥモローランドという二つのランドは、アメリカという国を理解するために必要なキーワードである“フロンティア精神”と深く結びついています。
 アメリカには建国の神話がありませんが、それに代わるものとして西部開拓の歴史が存在しています。(P.82)

(中略)さて、この西部開拓時代は、一八九一年に(中略)いわゆる“フロンティアの消滅”によって終了します。
 この開拓時代の終了とは、同時にこのアメリカの先住民であるインディアン=ネイティブアメリカの掃討が完了したことを意味するものでもありました。西部開拓とは、白人による先住民からの土地や財産の収奪でもありました。
 つまりは、古き良きアメリカを賛美するという、ディズニーランドのテーマは、一方で先住民の迫害という事実を隠蔽することで、初めて成立するものでもあるのです。(P.82-83)

これは事実であるけど、やはり「悪意」を感じます。でも、これは、ま、いいか。でも、ここから「ショッピングモール化」(ショッピングモーライゼーション)を批判する論に繋がっていけば、この(上記の)挿話の必然性は理解できるのだけど、ところが、著者は反対に「ショッピングモール化」に対して批判的に捉える人々(主に「自称文化人」)を批判するという方向へ論を進めるのです。言い換えると、この本は「自称文化人」へ向けて書かれているのです。または、「自称文化人」を批判したい人に向けて書かれているのです。ちなみに、著者は前回の「商店街はなぜ滅びるのか」の記事で僕が批判した、新雅史著「商店街はなぜ滅びるのか――社会・政治・経済史から探る再生の道」(2012年)も批判しています(P.52-55)。おそらく、著者はこの本(「都市と消費とディズニーの夢」)の「あとがき」で書いているように、リアリストである事を意識しているのだと思います。つまり、「本書はとても現実的なショッピングモール関連の資料に当たり、ジャーナリストとして現代の都市を取材して書いています。(中略)本書の主眼は、バラードのように詩的に都市を描写することではなく、現実に都市で起こっていることを記すことにあります。」(P.219)という事です。

でも、前述したように、その事(現実的である事)とウォルト・ディズニーに対して特定のレッテルを貼る事が全く繋がっていません。むしろ、それは「現実」を理解する事から遠ざける行為でしょう。また更に、最悪なのが、著者の「現実」に対する理解が「現実」からかけ離れているという事です。ほとんどの場合、この本はわずかな一欠片(ひとかけら)の情報(証拠)から、残りの「現実」全てを著者が「妄想」(物語化)して補完する、というパターンで書かれています。例えば、上記で書いたように、著者は「クアラルンプールでは、むしろ高層の吹き抜け式が主流です。」(P.50)と書いているのだけど、ネットで少し調べただけで、それが正しくないという事が分かります。おそらく、著者は(これは僕の「妄想」だけど)、例えば、クアラルンプールの「スリア KLCC」(フロアは6階建て)だけを見て、「クアラルンプールでは、むしろ高層の吹き抜け式が主流です。」と結論付けたのでしょう。もちろん、著者が実際にどうであるのかは僕に知る由もありませんけど、そのような記述が多すぎるのがこの本の最大の欠点です。この本はほとんどが著者の「妄想」によって書かれているのです。そして、この著者の「妄想」はこの本の後半へ行くと、より一層ひどくなります。看過できません。なぜなら、「現実」を装って「ウソ」を読者にたらし込んでいるからです。


 自らの“夢の王国”、つまり古き良きアメリカを再現したテーマパーク(引用者駐:ディズニーランドの事)の事業で大成功を収めたウォルトでしたが、その欲望がそこで完全に満たされたわけではありません。(P.88)

(中略)ウォルトにはディズニーランドの成功からまもなく、すぐに次のプランが浮かんでいました。
 しかし、その新しいアイデアとは、入場料収入を目論んだアミューズメントパークビジネスの延長線上にあるものではありませんでした。園内を完璧にコントロールするテーマパークの次に彼が計画したのは、園外の環境をもコントロールすること。つまりは、テーマパークのような都市そのものをつくることだったのです。(P.89)

とりあえず、(僕の)別ブログの「クリスタルパレス」、「都市と工場-2」の記事参照。(別に読まなくてもいいです。たいした事は書いていないので。)

(中略)ウォルトの都市の構想は、ディズニー・ワールド・リゾートという別の形に変わってしまいましたが、彼の具体的なその中身は、資料として残されています。
 彼の構想していた都市には“EPCOT”というプロジェクトコードが付いていました。これは、“実験未来都市(Experimental Prototype Community of Tomorrow)”の略です。

EPCOTは、中心から等距離に同心円状に拡がり、商業地区と居住地区が分離(中略)され、それぞれの層をモノレールが結んでいました。
(中略)そして、このEPCOTは、他の都市とは、道路や鉄道などによって接続されていないという特徴を持っています。外の都市との行き来のための唯一の手段は、都市の中に存在する空港で発着する高速ジェット機です。(P.92-93)

そのような事実はありません。

 なぜ、他の都市と接続されていないのか。そのメリットはいくつか挙げられるでしょう。(P.93)

(中略)他の都市との接続を一定に制限することで、人の行き来をコントロールすることができるという利点もありました。空港でのチェック体制を徹底させることで、素性のわからない人間を締め出すことが簡単にできます。こうした体制のセキュリティチェックによって、EPCOTで犯罪ゼロの都市を実現できるという発想です。(P.93)

これは、著者の妄想です。

 アメリカは、第二次世界大戦中、戦後に移民政策の転換を行いました。それまでの差別的な移民政策は、段階を経て規制緩和されました。特に、アジア系の移民がこれを機に増えました。アメリカの移民問題は、そのまま都市の問題でもありました。ウォルトは、こうした移民の問題を都市問題と接続させて考えたのでしょう。

 都市間の出入りを制限し、その出入りのチェックをすることで犯罪ゼロを目指す。このウォルトの発想が移民差別であったというわけではありません。高速ジェット機のチケットを購入することができる者にしか開かれていない都市がEPCOTなのだとすれば、実はディズニーランドの中が平和であり、犯罪が行われないという原理とよく似ています。(P.93-94)

ひどい。信じられません。

念のため、書いておくけど、上記の「外の都市との行き来のための唯一の手段は、都市の中に存在する空港で発着する高速ジェット機です。」は事実ではありません。EPCOTの場所(立地)は、フロリダ州オーランド市*4なのだけど、なぜこの場所(立地)が選ばれたのかを考えれば、すぐに分かる事でしょう。もし本当に「外の都市との行き来のための唯一の手段は、都市の中に存在する空港で発着する高速ジェット機」であるならば、例えば、航空貨物取扱の最大手のフェデラル・エクスプレスの本社があるテネシー州メンフィス市の辺りをEPCOTの場所(立地)に選んでいた事でしょう。ちなみに、EPCOTの場所(立地)の選定を調査したリサーチ会社のバズ・プライスという人は、「(前略)フロリダ州中部に作るべきだということが明らかになった。今回も、海水浴場と競争する海沿いは避けるというディズニーランド建設時の方針を採用した(引用者駐:ディズニーランドの場所(立地)の選定でも、海水浴場と競争する海沿い(サンタモニカ)は避けていた)。東と西から伸びてきていた高速道路がオーランドで交わるだろうという読みもあった」と述べています。つまり、最初から高速道路と接続する計画だったのです。著者(速水健朗)は、ウォルト・ディズニーに対する「敵意」が強すぎるために、「現実」を見る事ができなくなっているのです。

(追記。「Walt Disney's Original Plan for EPCOT」(1966年)の動画(→Part 2Part 3)も参照。)

 こうしたEPCOTの諸原理を見ていくと、ウォルトの構想が、ディズニーランドの成功を都市にそのまま持ち込もうとしたもののようにも見えてきますが、実はウォルトの都市の構想は、ウォルトの夢物語というわけではありません。むしろ彼は、当時のアメリカの都市で起こっていた諸問題をクリアするという目的でこのEPCOTを考えていたようです。
 ウォルトが危惧した当時の都市の問題とは、一九五〇年代以降に目立ち始めていた都市中心部の荒廃です。また、都市中心部の荒廃とは、同時に古き良きコミュニティの崩壊をもたらすものでもありました。ウォルトは、保守主義者として都市機能の改善に興味を持っていたのです。(P.95-96)

そのような事実も聞いた事がありません。(ま、でも、これはあり得るので、参考文献を教えてもらいたい。)

 当時のアメリカの都市部で起こっていた問題を明確に摑(つか)んで告発したのは、女性ジャーナリストのジェイン・ジェイコブズでした。彼女は、都市計画の専門家ではありませんでしたが、当時のニューヨークの都市計画を批判し、一九六一年に『アメリカ大都市の死と生』を書き上げます。
 この本で彼女は、大規模幹線道路が都市と接続されることで都市は衰退すると指摘しています。そして、当時の行政が行おうとした商業地や住宅地といった区分を明確にし、ゾーンで切り分けて開発をするという方針が、都心が本来持つ多様性や複雑性を失わせ、逆に荒廃を加速させるということを批判したのです。
 ウォルトとジェイン・ジェイコブズは、都心部の荒廃という問題意識においては共通していますが、その思想は正反対と言っていいでしょう。(P.96)

(中略)ウォルトは、都心の維持には管理と排除が必要と考えていましたが、ジェイコブズは反対に多様性や複雑性が必要と考えていたのです。二人の思想背景である保守主義とリベラルが明確に対立しています。(P.96)

ウォルト・ディズニーが「都心部の荒廃という問題意識」を持っていたのかどうかは僕は知らないし、もしそうであるならば、ウォルト・ディズニーはその都心部に何かを建設する事を考えたのではないか、と思います。ウォルト・ディズニーは、常に(都心部も含めて)他の施設との競争を避ける場所(立地)を選んでいるので、少し信じ難い話です。また、著者には「妄想癖」があるので、著者を信じる事はできません。また更に、都市思想家のジェイン・ジェイコブズは「リベラル」と言うよりは「古典的自由主義」(ハイエクの思想に近い)です。ま、これは「リベラル」の定義にもよるのだけど、ジェイン・ジェイコブズは(ハイエクと同様に)自生的秩序を重視した人で、「リベラル」に見られるような合理主義的(計画主義的)な政策を批判したのです。

また、ウォルト・ディズニーが「保守主義」と言うのも、どうかと思います。確かに、ウォルト・ディズニ―は熱烈な共和党の支持者で、共和党に莫大な額を寄付していたのだけど、基本的には進歩的な自由主義者ではないかと僕は思います(ちなみに、ウォルト・ディズニーの父(Elias Disney)は熱烈な社会主義者だった)。また、そもそも、上記のその「EPCOT」のデザインは、とても近未来的で、「古き良きアメリカ」あるいは「ノスタルジー」からかけ離れています。また、ウォルト・ディズニーが「EPCOT」で最も重視したのは「教育」で、ウォルト・ディズニーはほぼ同時期に「カリフォルニア芸術大学」設立の支援(寄付)をしています。ウォルト・ディズニーは若い世代の「教育」に最大の関心があったのです。ウォルト・ディズニーは「EPCOT」について、「世界中のあらゆる都市問題を解決する町を作るわけではなく、国内企業に実験の機会を提供し、交通や住宅問題の解決方法を世界に示そうというもの」であって、また更に、「EPCOT」で「本当に取り組みたい事」として、「ティーンエージャーが適切な監督を受け、自分たちを表現する機会を与えられ、物事に没頭できるような場所を世界に示す」事だと述べています。

ま、でも、一方では、ウォルト・ディズニーは、ジェイン・ジェイコブズの「宿敵」であったロバート・モーゼス(Robert Moses*5と気質がよく似ていたとも言われている(二人ともタフで目標を強く持っていた一方で、やる気のない人や後ろ向きの人を軽蔑した)ので、ウォルト・ディズニージェイン・ジェイコブズを対比させる事自体は間違っていないのかも知れません。(でも、著者が対比させたポイントは明らかにズレています。)

 こうしたアメリカの都市中心部の衰退を受けて、それに対抗しようとした建築家・都市計画家にビクター・グルーエンという人物がいます。彼は、ショッピングモールの生みの親と言われている人物です。(P.97)

(中略)グルーエンが組織するビクター・グルーエン・アソシエイツが都市計画のマスタープランを手がけたテキサス州フォートワース市は、都市中心部から自動車を排除し、徒歩者たちのために生まれ変わらせるという事案でもありました。
 このフォートワースの都市計画に対しては、都市計画そのものに懐疑的だったジェイン・ジェイコブズも賛同を示しています。(P.100)

そのような事実も聞いた事がありません。ジェイン・ジェイコブズは「賛同を示して」いません。(これも、参考文献を教えてもらいたい。)

僕の手元にある本の(前述の)ジェイン・ジェイコブズ著「アメリカ大都市の死と生」(1961年)の第18章「都市の侵食か自動車の削減か」から少し引用すると、「テキサス州フォートワース市の自動車乗入禁止のダウンタウン計画(この章で詳しく述べます)を考案したヴィクター・グリュエン(引用者駐:ビクター・グルーエン)は、スライドを使って自分の構想を説明しました。(中略)ハワードの小さな町型の田園都市をもとに、一九二〇年代に公園、超高層ビル、高速道路版として輝く都市を設計したル・コルビュジエは、新時代のため、それに伴う新しい交通システムのために設計しているのだと自負しました。それはまちがいでした。(中略)集中させた人口に実際に必要となる、遥かに多くの自動車、車道の量、駐車場やサービスの規模にはまったく対応していませんでした。(中略)フォートワース市のグリュエン計画の場合でも、グリュエンは車両絶対数の減少を前提にしなければなりませんでした。(かなり中略)どのみち、歩車完全分離の利点が本当にそんなに大きいかどうか、わたしは怪しく思っています。(中略)わたしは機会があるたびに人々の歩道の使い方を観察してきました。かれらは歩道のど真ん中に飛び出して、ついに道の支配者になったとふんぞりかえって歩いたりしません。道の端にいるのです。ボストン市ではダウンタウンの商店街二つを歩行者天国にして実験が行われました(中略)。ほとんどがら空きの路面と、とても混雑した非常に狭い歩道はまさに見ものでした。アメリカ大陸の反対側では、同じ現象がディズニーランドの顔にあたるメインストリートで起きています。(中略)来園者たちは道の真ん中を歩かずに、むしろ歩道を利用しています。(中略)ボストン市やディズニーランドで人々がこのように自制するのは、ある程度はわたしたちだれもが縁石を気にかけるように条件づけられているという事実によるものでしょう。(中略)それは思うに、そこ(引用者駐:道の端、歩道)が最もおもしろい場所だからでしょう。かれらは歩きながら眺める――窓を眺め、建物を眺め、お互いを眺める――ことに専念しているのです。(中略)生活は生活を引き寄せます。何やら抽象的な善意で歩車分離が行われ、その善意実現のためにあまりに多くの生活形態や活動形態が無視されたり弾圧されたりすると、そんな仕組みはだれもありがたりと思わないです。都市の交通問題を歩行者対自動車という単純化しすぎた図式で捉え、両者の分離を第一目標に据えるのは、問題に対する取り組み方としてまちがっています。都市の歩行者に対する配慮は、都市の多様性、活力、利用の集中への配慮と切り離せません。(後略)」(P.369-377)と述べています。*6

ま、簡単にまとめると、上記で著者(速水健朗)が、「この本で彼女は、(中略)ゾーンで切り分けて開発をするという方針が、都心が本来持つ多様性や複雑性を失わせ、(後略)」と書いているように、ビクター・グルーエンのフォートワース市の都市計画の「歩車分離」(というゾーンの切り分け)をジェイン・ジェイコブズはここで批判しているのです。そもそも、「歩車分離」は近代都市計画(モダニズム)の設計方法で、ジェイン・ジェイコブズはその近代を批判した人です。

 そしてこのグルーエンとショッピングモールを考える上で、もうひとり重要な人物がいます。その人物の著書も、やはりウォルトの書斎に並んでいました。その本は『明日の田園都市』というものです。著者は、ビクター・グルーエンよりもよく知られている一九世紀の都市計画家のエベネザー・ハワードです。(P.102)

(中略)本来の「田園都市」とは、自然と共生した住宅地をつくることではありません。ハワードの田園都市構想は、一九世紀に到来した産業社会、都市への一極集中に対抗し、職住近接型のコミュニティを志したものでした。
 田園都市は、住宅と農地で構成されています。その中で自給自足が可能なのです。(P.102-103)

違います。ハワードの田園都市構想と「自給自足」は関係ありません。

エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)から少し引用すると、「町そのものには、いろいろの職業に従事する人口がおり、各区には商店や倉庫があり、農地地所に住む人びとに対して、最も無理のない市場を提供するものである。というのは、その生産物を町民が需要するかぎりでは、農民は鉄道運賃や手数料を払わないで済むからである。しかも農民やその他のものは、生産物の市場をその町に限定されるわけではない。この人たちは誰にでも自由に販売する完全な権利をもっているのである。(中略)この自由の原則は、この町で財産をこしらえた製造業者やその他のものにとって有利に働く。この人たちはもちろん土地の一般的法律に従い、また労働者に豊かな空間と合理的な衛生状態を確保する規則に従うのであるが、自分独特の方法で事業を営むのである。水道や照明や電話などは、能率より公正に運営されるならば、自治体が最善の最も当然な供給機関であるが、厳格な、もしくは絶対的独占は期待されていない。」(P.95)、「町民は世界のどこから食糧を買い入れても、なんらさしつかえない。じっさい、多くの生産物が海外から引き続き供給されることは疑いない。これらの農民は紅茶・コーヒー。香辛料・熱帯産果物・砂糖などを供給することは不可能である。この町に小麦や小麦粉を供給するための、アメリカやロシアとの競争はあいかわらず激しいだろう。しかしその競争はかならずしや絶望的なものではなくなるだろう。ひとすじの希望の光が絶望するわが国内の小麦生産者の心を喜ばせるだろう。というのはアメリカ人は産地から港までの小麦の鉄道運賃と、大西洋上の海上運賃と港から消費者までの鉄道運賃を負担しなければならない。これに反して、<田園都市>の農民は自分の家の戸口近くに市場があるばかりでなく、その農民が地代を支払うその市場が富をつくりあげるのに役立つのである。野菜と果物を考えてみよう。町に近い農民でなければ、近頃はそれらを栽培しない。なぜか。最大の理由は、市場が不安定で運賃と手数料が高いからである。牛乳に関しては(中略)。換言すれば、都市と農村の結合は、健康によいばかりでなく、経済的でもあるのだ。」(P.102-103)と述べています。

むしろ、エベネザー・ハワードは「自給自足」を批判しているのです。と言うのも、前に(僕の)別ブログの「明日の田園都市-3」の記事で少し書いたように、エベネザー・ハワードの「田園都市」は(ハワードより前の時代の)社会改革家のロバート・オーウェンのような空想的社会主義等への批判(と反省)の上に構想されているのです。エベネザー・ハワードはコミュニティを重視した社会主義者ではあるけど、エベネザー・ハワードが理想とする社会を実現するために「市場原理」を徹底的に利用している(「市場原理」の上に理想社会を冠している)のです。よって、「自給自足」は全く筋違いの見方(時代が一個違う)です。

ところで、著者(速水健朗)は「明日の田園都市」を本当に読んだのだろうか。更に、前述の「アメリカ大都市の死と生」も本当に読んだのだろうか。

 そして、田園都市は孤立しないために、複数の田園都市同士が高速道路にて接続され、行き来できるようにされています。(P.103)

高速鉄道」です。(エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」、P.235)

この本が出版された当時(1902年)に「高速道路」はまだありません。時代考証的にも間違っています。

つまり、田園都市は、それらが大都市の近郊の周囲に点在する衛星都市なのです。(P.103)

田園都市は、大都市の衛星都市ではありません。

著者(速水健朗)は間違いなく「明日の田園都市」を読んでいないだろうけど、ま、百歩譲って、前に(僕の)別ブログの「Computer City」の記事で、エベネザー・ハワードの「著書「明日の田園都市」そのものが少しトリッキーに書かれてある」、「その手品のタネは「セントラルシティ」にあって、これが机上の理論と現実の都市(ロンドン)のリエゾンになっている」と書いたのだけど、著者はそのトリックに引っ掛かったと好意的に解釈できなくもないです。と言うのも、このトリックに引っ掛かった人は(都市の専門家でも)いるからです。細かい説明は省くけど、前に本ブログの「東京は最大都市規模を超過しているのか」の記事で少し書いたように、「社会改良家のエベネザー・ハワードが提案した「田園都市」(1902年)」は、「人口5万8000人の「セントラルシティ」と人口3万2000人の「田園都市」が6個、→画像」のクラスター状になっているのです。つまり、「田園都市」は「セントラルシティ」の衛星都市なのです。また、「人口5万8000人」を「大都市」と呼ぶには無理があります。

 また、グル―エンのショッピングモールというコンセプトも、田園都市の影響を強く受けたものでした。彼が、ショッピングモールを考えるに当たり、自動車を人が歩くゾーンから隔離するというアイデアは、田園都市から着想を得たものでした。(中略)グルーエンの元々のコンセプトは、商業施設というよりも、都市計画そのものだったのです。(P.103-104)

繰り返しになるけど、エベネザー・ハワードが「明日の田園都市」を出版した当時は、自動車はまだ全く普及していません。

だから、エベネザー・ハワードは「歩車分離」については一言も言及していません。(と言うか、言及できるわけがないw。)

「自動車を人が歩くゾーンから隔離するというアイデア」は、地域計画研究者のクラレンス・ペリーの「近隣住区論」(1924年)の間違いではないか。(ま、クラレンス・ペリーの「近隣住区論」は、エベネザー・ハワードの「田園都市」の影響を強く受けているので、全く無関係というわけでもないけど。)

(ここまでで大体、この本の半分です。少し書くペースを上げます。端折ります。)

■ 第三章「ショッピングモールの歴史」

 大量生産方式の登場によって商品の価格が下がったことで、一般庶民がそれを購入する消費者になったのが二〇世紀です。T型フォードが量産によって価格を下げ、それによってT型フォードの生産工場で働く労働者たち自身が、それを購入する消費者になったというエピソードが、この二〇世紀の消費と生産を巡る伝説の最もたるものと言っていいでしょう。(P.112)

違います。その「エピソード」は、量産によって「価格が下がった」事ではなく、労働者の「給料が上がった」事のエピソードです。

フォードを創設したヘンリー・フォードは、前に本ブログの「丹下健三「建築と都市」――機能主義の限界」の記事で少し書いた、ヘンリー・ジョージ(ジョージズム)の影響を受けています。ついでに、前述のエベネザー・ハワードもヘンリー・ジョージの影響を受けています。ウィキペディアの「ヘンリー・フォード」の項から少し引用すると、ヘンリー・フォードは、「ほかの要因はさておき、我々の売上は、ある程度賃金に依存しているのだ。より高い賃金を出せば、その金はどこかで使われ、ほかの分野の商店主や卸売り業者や製造業者、それに労働者の繁栄につながり、 それがまた我々の売上に反映される。全国規模の高賃金は全国規模の繁栄をもたらす」と述べています。えーと、どこかの本で読んだのだけど(仲正昌樹の本だったような気がしたのだけど、該当箇所が見つからなかった)、大量生産方式の工場と言うと、チャーリー・チャップリンの映画「モダン・タイムス」(1936年、→動画)のような過酷な労働を連想するけど、過酷な労働であるがゆえに労働者の給料は高かったのです。また、ヘンリー・フォード以外にも、その当時のアメリカの工場経営者らは思想(理念)を持っていて、現代社会のように労働者を徹底的に搾取する、とは考えていなかったのです。(ま、もちろん、フォードのそうした思想(労働者を大事にする事)が、後に会社経営の危機となる(労働組合の力が強くなりすぎて(後に日本車が台頭してきても)労働者をリストラする事ができない)という負の面もなくはない。)

 一九六〇年代に入ると、衰退したダウンタウンを再生しようという気運が高まります。そのときに注目されたのが、一九五〇〜六〇年代にたくさんつくられ、郊外の新しいダウンタウンの役割を担い、成功していたショッピングモールの手法でした。(P.139)

そのような事実はありません。

 ショッピングモールの手法とは、何を指すのでしょうか?
 ひとつには自動車が走るゾーンと人が歩くゾーンを分離する歩車分離という考え方があります。さらには、ショッピングモールのようにセキュリティを強化した空間を、都心で再現しようというのもモールの手法です。
 こういった手法を、郊外という要素から切り離し、都心の再開発に応用することができるのではないかということを都市計画家や自治体が考え始めたのです。
 ダウンタウンの衰退を食い止めるために行政が手を打った最初期の例に、ミネアポリス都心部の都市計画、二コレット・モールの再開発(一九六七年)の事例があります。
 二コレット・モールは、ショッピングモールではありません。ミネアポリス都心部の道路の歩道を拡張し、自動車のレーンを減らし、バスやタクシーなどの車両以外は進入できなくしました。(P.140) 

全然違います。

「歩車分離」は近代都市計画の手法です。また、「セキュリティを強化した」という話も(少なくとも僕は)聞いた事がありません。また、その当時に「ショッピングモールの手法」を採用したという話も聞いた事がありません。(参考文献は何ですか?)

また、上記の二コレット・モールの再開発は「最初期の例」ではありません。ま、「二コレット・モール」という言葉を凄い久しぶりに目にしたのだけど(一応、二コレット・モールは有名で、大学で必ず習います。建築士試験にも出題されます)w、どの本にしようか(ゴソゴソ…)、では、今野博著「まちづくりと歩行空間――豊かな都市空間の創造をめざして」(1980年)から少し引用すると、二コレット・モールは(「最初期」ではなく)「第三期」(P.26)です。ちなみに、第一期は、第二次世界大戦後のヨーロッパの「戦災復興事業としての都心部における歩行空間形成の取り組み」(P.23)です。第二期は1955〜1964年で、例えば、パリの「ラ・デファンス」再開発計画も「この時期に策定されたものであり、大規模な再開発計画では、ペデストリアンデッキが定着したのである。」(P.24)との事です。また、上記のビクター・グルーエンのフォートワース市の都市計画も第二期です。そして第三期の二コレット・モールに関しては、「この時期になると、これまでの都心部再生における歩行空間の必要性が広く認識され、より広範により多面的に、その都市の特性や条件に応じた展開が試みられるようになる。また、都心部の一定のエリアについて、面的に交通をコントロールする手法も一般化することになる。(中略)ミネアポリスアメリカ)の下町に位置する二コレット・モールは、完全な歩行者専用の空間ではなく、バスやタクシーの通行を認め、モールのほぼ中央を幅員約7mの車道が蛇行し、人と車の新たな共存関係を模索した事例である。」(P.26-27)、「二コレット・モールは都心の再生に成功した事例として世界の都市に大きな影響を与えることになった。」(P.100)との事です。ま、正直、この二コレット・モールに関しては、全然覚えていませんでした(こらこらw)。

いずれにせよ、上記の引用の「二コレット・モールは、ショッピングモールではありません。ミネアポリス都心部の道路の歩道を拡張し、自動車のレーンを減らし、バスやタクシーなどの車両以外は進入できなくしました。」となっているのは、それ以前(第二期までの「歩車分離」を徹底した再開発)への批判(と反省)を踏まえているからなのです。「歩車分離」を徹底するよりも、「人と車の新たな共存関係」を目指したほうが良いという事がこの頃には分かってきたのです。

ついでに、このプロセスは、1980年代後半以降のアメリカの「ニューアーバニズム」(コンパクトシティ)とよく似ています。当初はニューアーバニズムでも「歩車分離」が掲げられていたのだけど、現在では「人と車の新たな共存関係」を目指しています。物的に極端に制限する事は、住みにくさにつながってしまうからです。ま、要するに、ほどほどが良いという事ですw。現在の日本では、相変わらず自動車(車社会)を毛嫌いする「自称文化人」は多いのだけど、誰が何の権利によって「住みにくさ」を強制できるのかを、一度よく考えてみたらいいのではないかと僕は思います。また、話は外れるけど、前に本ブログの「東京は最大都市規模を超過しているのか」の記事で少し書いたような、ITSによる道路課金(ロードプライシング)が、前述の「ほどほど」さを調整するにあたって、最も実践的であるとも僕は思っています。

 都心をショッピングモールの手法で再生しようという手法のもうひとつは、オフィスやホテル、住宅などを複合的に結びつけた複合プロジェクト型再開発です。(P.143)

ま、著者(速水健朗)には、何もかも全てが「ショッピングモール」に見えるようです。妄想全開ですね。

(前略)一九五〇〜六〇年代のショッピングモールとは、当時の郊外生活者のライフスタイルと結びついたものでしたが、一九八〇年代以降のモールは、手法として切り離され、都心の再開発に応用されるモデルケースとなったのです。
 ここで注目したいのは、ショッピングモールの構成の変化です。一九五〇〜六〇年代のモールと、一九七〇〜一九八〇年代のモールでは、その構成は明らかに変化しました。
 五〇〜六〇年代のモールの中核、核テナントとして入居していたのは、百貨店か総合スーパー(GMS)です。しかし、七〇〜八〇年代にモールの中核を成すようになるのは、例えば、フードコートや、シネマコンプレックス(中略)などの時間消費型の施設です。(P.151)

ま、これは単に言葉の定義の問題にすぎないけど、「フードコート」や「シネマコンプレックス」を「核テナント」とは呼びませんし、それらが「モールの中核」を成している事もありません。

 一九七〇年代以降のショッピングモールとは、金銭消費型から滞在・滞留型へと進化します。つまり、消費をするために集まった人びとにお金を使わせることが、本来のモールの消費の在り方でしたが、七〇〜八〇年代のモールは、足を運んだ人に消費の機会を突きつけるというものに変化したのです。(P.153)

ま、基本的にはそういう事です。

でも、念のため、補足しておくと、「金銭消費型から滞在・滞留型へと進化」したと言うよりは、「金銭消費型」に「滞在・滞留型」を「追加」したと言ったほうが、より現実(実情)に近いです。と言うのも、時間消費型(滞在・滞留型)の施設では、客はたいして金銭消費しないのです(ワラ)。一般的に、商業建築界では「滞在時間は消費金額に比例する」と言われていて、これはその通りなのだけど、上記で著者が書いているように、「足を運んだ人に消費の機会を突きつける」ような建築計画にしないと、店は儲からないのです。具体的には、例えば、ショッピングモールで「フードコート」や「シネマコンプレックス」は入口から最も遠いところに配置されます。「3層ガレリア式」のショッピングモールであれば、3階の一番奥が入口から最も遠いところです。「フードコート」や「シネマコンプレックス」のような来店目的性の高い施設は、入口から遠くても客はノコノコと(アホ面して)歩いてくれる事が分かっているからです。そうやって、客をモール内をわざと歩かせて、客がモール沿いに並ぶ専門店(テナント)の前を通るようにして、客に衝動買いをさせるように計画しているのです。百貨店の「シャワー効果」と同じです。と言うわけで、現在のショッピングモールでは、「金銭消費型」の施設(専門店等)に、客に「消費の機会を突きつける」ために「時間消費型」の施設(フードコートやシネマコンプレックス等)を「追加」している、と言ったほうが良いという事になるのです。

ま、「時間消費型」というキーワードを目にする機会は(ネットでも)やたらと多いのだけど、間違えてはならないポイントは、「時間消費型」の施設だけでは決して儲からないという事です。著者(速水健朗)は間違えていないけど、これを根本的に間違えている「自称文化人」はやたらと多い。関連して、「東京圏生活者の移動と消費に関する調査研究」(東日本旅客鉄道、2006年、中人美香、他)の論文(→PDFファイル)のグラフを載せておきます(下図)。ま、大体、こんな感じですね。

■ 第四章「都心・観光・ショッピングモーライゼーション」

(この章では、主に、「一九六九年に開業した、東急東横線沿線二子玉川駅の近くにできた玉川高島屋ショッピングセンター」(P.163)と、一九八一年に「千葉県船橋市の埋め立て地に開業した、三井不動産ららぽーと船橋」(P.174)について書かれているのだけど、僕はどちらもよく知りません。上記で「僕は某社のショッピングモールの設計(基本設計)の仕事を前にしていた」と書いたのだけど、そこでこの二つの商業施設が話題に上った事(耳学問した事)はほとんどありません。どちらかと言えば、この二つは別格扱いだったと思います。確か、後者の「ららぽーと船橋」は、「化け物」扱いでした。もちろん、これは良い意味での「化け物」なのだけど、この二つの商業施設はあまりにも特殊すぎて参考にならない(一般性がない、真似ができない)といった感じでした。だから、この章では、著者は、「実は、ららぽーと船橋には、一九八八年の時点で、複数の映画スクリーンが存在していました。業態としては、かつての映画館のままだったため、厳密にはシネコン(引用者駐:シネマコンプレックス)に定義されないようですが、ららぽーと船橋が時代の先端を行っていたのは間違いありません。アメリカのワーナーと日本のニチイの合弁で起(た)ちあげたのが「ワーナー・マイカル・シネマズ」(マイカルの破綻後は、イオングループ入り)で、それ以後、TOHOシネマズ、ユナイテッド・シネマなどのシネコン運営企業も参入します。」(P.182-183)と書いているのだけど、はっきり言って、「ららぽーと船橋」とその後の(イオングループ等の)シネマコンプレックスは全く関係ありません。良し悪しはともかく、「ららぽーと船橋」は無視されていました。系譜は違うのです。)

 本書では、都市の公共機能が経済効率や市場原理で変わることを「ショッピングモーライゼーション」と呼びました。そのほかにもあらゆる段階において、都市とショッピングモールとの同化について触れてきました。これらも「ショッピングモーライゼーション」と呼んでもかまわないでしょう。
 経済効率性や消費社会化によって公共の機能が私的なビジネスの場になることの暴力性について、無批判な姿勢を批判する向きもあるでしょう。しかし、新自由主義や消費社会を端(はな)から批判するという姿勢では、いま起こっている事態を理解することすら困難になるでしょう。本書では、その価値判断よりも、現状の描写を優先します。(P.213)

著者(速水健朗)の「現状の描写」はほとんどが著者の身勝手な妄想です。全然違います。長々と書いたけど、著者のデタラメさには心底呆れています。

 ショッピングモーライゼーションによる都市の変化については、多くの事例を含めて取り上げてきましたが、それがもたらす社会の変化や、そこに住む人々の変化について、まだ全貌は見えていません。
 この言葉を考える上で参照したモータリゼーションは、最初に想定された以上に大きな影響を社会に与えました。都市計画から住生活、そして消費形態に至るまで、人々の経済活動全体を根本から変えたのです。
 ショッピングモーライゼーションが単なるシャレや思いつきなのか、それ以上の意義のある考察なのか、筆者にはよくわかりません。ショッピングモーライゼーションの是非が、どこかで議論される日が来ることを、願って止みません。(P.215)

この本はここで終わっています。と言うわけで、今回の記事は以上です。

ま、いずれにせよ、上記の「どこかで議論される日が来ることを、願って止みません。」のその「議論」に一石を投じる想いを込めて、この本を徹底的に批判してみました(ウソですw)。関連して、茂木健一郎のツイートをまとめた「悪いpublicityも、良いpublicityである」(トゥギャッター、2012年8月13日)を参照。乱文失礼。ではまた。

*1:イオンの郊外型1号店、北京でオープン」(ITmedia ニュース、2008年11月7日)を参照。少し引用すると、「小売企業の多くが北京中心部でショッピングセンター開発を進めている中、イオンはマイカーを持つホワイトカラーをターゲットにした戦略を打ち出した。(後略)」。関連して、「ショッピングモールの郊外進出が加速−最新小売市場レポート(2)− (シンガポール)」(ジェトロ、2012年5月11日)も参照。少し引用すると、シンガポールでは、「近年、ショッピングモールの開発が相次いでいるが、2012年以降は郊外でのモール開発が中心になる見通しだ。(後略)」

*2:(僕の)別ブログの「「逆都市化」する東京」の記事参照(「クラッセンの「都市サイクル仮説」(都市化→郊外化→逆都市化→再都市化)や、ジョエル・ガローの「エッジシティ」(住宅の郊外化→商店の郊外化→職場の郊外化)等の膨大なデータに基づいた実証的な都市論がある」)

*3:(僕の)別ブログの「Freedom-1」の記事参照。少し引用すると、「(前略)でも、どうもイマイチ、映画館へは足を運ぶ気になれない。映画館とは、暗闇で皆がじっと同じ方向を向くことを強いる機械仕掛けの空間。(中略)吉見俊哉氏はディズニーランドを外部の現実に対して徹底的に閉じた自己完結的な空間と定義されたけど、でも普通に考えたら、それは映画館のことだと思います。ディズニーランドの地下には巨大なコントロール室があって、秘密裏に地上を管理しているのような話も時々聞きます。(しかし、ディズニーランドの地下にあるのは貯水槽。)それから、宮台氏はブログにディズニーランド的なマインドコントロールと書かれました。ディズニーランドが反定立(アンチテーゼ)として、社会学建築学において、どのように機能してるのかについて、自覚的でなければならないです。何故なら現在の大学(建築)で、学生がディズニー風の作品をつくると恐qあwせdrftgyふじこlp。これは、少女マンガ風でも(ry」。うーん。ま、一応、僕が「映画館」が嫌いなのは、前回の「商店街はなぜ滅びるのか」の記事で書いたように、「僕は長時間の動画を観る事がとても苦手」だからです(ははっw)。あと、最後の一文の「現在の大学(建築)で、学生がディズニー風の作品をつくると恐qあwせdrftgyふじこlp。これは、少女マンガ風でも(ry」」の文意が分かりにくいのでw、そのコメント欄に補足説明してあるのだけど、これは、「焼け石に水だとは思いますが(火に油を注ぐかも)、記事に書いた「少女マンガ風」の話は、実話です。僕ではないけど、少女マンガを描くのが好きなコがいて、自分の個性の羽を広げた途端、彼女は奈落の底に突き落とされてしまいました。」という事です。それだけ現在の日本の大学(建築学科)は閉鎖的(スノッブ)であるのです。おまけで、「おとぎ話から飛び出してきたかのような家」(ハムスター速報、2012年8月14日)を参照w。あと、(僕の)別ブログの「Mmm..」の記事参照。少し引用すると、「思想家のジャン・ボードリヤールは、「ディズニーランドとは、実在する国、実在するアメリカ全てがディズニーランドなんだということを隠すためにそこにある」と語ってます。映画監督のヴィム・ヴェンダースは、ディズニーランド化(disneylandization)の最先端にある都市はラスベガスで、世界中の都市がそのようになろうとしていると語ってます。そして、それはdisasterでもある、と。さらに、世界の全て(映画も含めて)がファストフード化している、とも語ってます。(後略)」。あと、(僕の)別ブログの「グローバリゼーション(town)」の記事参照。少し引用すると、「都市計画界でもいろんな意味で話題となった「セレブレーション」という街です。ディズニーがつくった「現実の」街。「テーマパークみてぇだ」と一番言われやすいやつです。街とは? 街並みとは? 統一とは? 景観とは? ・・・」。関連して、「揺れるみなとみらい、景観は誰のもの?」(アゴラ、2012年3月3日、伊藤ひろたか)を参照。ちなみに、僕は前に本ブログの「鉄道の未来学――大都市の鉄道の未来」の記事で、「(前略)横浜市は都市環境に対して、神経質(潔癖症、過敏症)に見えるのです。横浜市は、地面の全てを芝とレンガ舗装で敷き詰めないと気が済まないのだろうか。まるで、アーバン・ホラーの世界です。やり過ぎです。」と書いています。あと、ディズニーランドに関しては、他のブログ記事でも書いているのだけど、とりあえず、この辺で。

*4:本ブログの「クリエイティブ・ヴィレッジ」の記事参照(オーランド市)

*5:(僕の)別ブログの「都市の原理」の記事参照(「ジェイコブズ対モーゼス―ニューヨーク都市計画をめぐる闘い」、asahi.com、2011年5月15日、柄谷行人

*6:前回の「製造産業都市と中継都市」の記事参照(「ジェイコブズの本ほど一部だけを取り出して引用するという事が難しい本はない(ワラ)。」)