「東京一極集中は弊害か否か」の論点整理

先月、私は「「東京一極集中」が経済成長をもたらすという証拠はない?」(2016/9/11)と題したtogetterをつくった。これは昨年、東京都が発表した都民経済計算(2015/12/21)の資料に、東京都の実質経済成長率は全国よりも低い、ということが書かれていることなどをまとめたかなりマニアックなtogetterなのだが、それでもPV数は2万を超えて、それなりの関心を集めたようである。おそらく今から2年前(2014/9/3)の第2次安倍政権が発足した時に掲げられた「地方創生」(ローカル・アベノミクス)政策とその直前に出版されて大ベストセラーとなった増田寛也著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』(2014/8/22)などに端を発した一連の議論(賛否両論)がその関心の背景にあるのではないかと思われる。だが、そこでの議論は、例えば2014/4/9の読売新聞が朝刊の一面のトップに「東京はブラックホール」と題した記事を掲載したように、日本の「人口減少」問題がいつも主な論点となっているように思われる。しかし、論点はそれだけではない。

まず先に、その読売新聞の記事について簡単に説明しておくと、東京が抱えている問題とは、毎日のように報じられている「待機児童」や「保育所建設断念」などのニュースから読みとれるように、東京は子育てには不向きで、出生率が低すぎで、まじで危険水域レベルにあるということである。よって、その読売新聞の記事から引用すると、「地方から首都圏へ若者が移っても、そこで多くの子供を育めば、日本全体として人口減にはならないはずだが現実は違う」、つまり、東京は人口を再生産しないので、「東京は、なおも全国から若者を吸収して地方を滅ぼす。人材供給源を失った東京もまた衰退していく――人口ブラックホール現象だ」ということになるわけだ。これは確かに重大な問題である。

そして、日本の「人口減少」と双璧をなすように問題視されているのが日本の「高齢化」である。実は「人口減少」よりも「高齢化」のほうがはるかに深刻な問題である。なぜなら、高齢者の介護・医療には膨大なコストがかかるからである。現在、日本の地方は「人口減少」のフェーズにあって、例えば先月末にNHKスペシャル縮小ニッポンの衝撃」(2016/9/25)が放送されて視聴者の多くが阿鼻叫喚したように、これは確かに大問題なのだが、一方では、地方は「人口減少」よりもはるかに深刻な「高齢化」のフェーズは終えつつある、潜り抜けつつあることを意味している。それに対して東京はこれから深刻な「高齢化」のフェーズを迎える。地方と東京でこのような“時間差”が生じているのは戦後、日本は傾斜生産方式を選択して東京に若い人を全国からたくさん集めたからである。それによって東京は発展した(地方は衰退した)わけだが、この先、ついにその時の“若い人”たちが一斉に高齢者となるフェーズに突入する。いわゆる「2025年問題」である。その時、東京の介護・医療システムは崩壊して、大パニックに陥るとも言われているが、いずれにせよ、東京は戦後の偏った人口移動(東京一極集中)のツケをこれから払うことになるだろう。その一方、地方は、経済学者の松谷明彦氏の『東京劣化――地方以上に劇的な首都の人口問題』(2015/3/14)によれば、2020年頃に「高齢化」のフェーズを終えて経済成長率は上がると予測されている。

以上の「人口減少」と「高齢化」の2つが「東京一極集中」(及び地方創生)の賛否に関する議論の主な論点と思われる。前者の「人口減少」に関しては、東京の出生率を上昇させるための地に足のついた着実な取り組み(東京を子育てがしやすい都市環境に改造する)などが今後も必要なのだろう。後者の「高齢化」に関しては、例えば(前述の大パニックを未然に防ぐために)東京から地方への高齢者の移住を促す政策などがすでに検討されている。「人口減少」と「高齢化」の2つの重大な問題は、現在の「東京一極集中」化の流れは決してサステイナブル(持続可能)ではないことを私たちに教えている。ある時代までは経済成長の原動力となっていたかも知れないが、今後も続くだろうと楽観視するのは容易ではないし、今こそ何らかの価値転換が求められているタイミングなのではないかと私は思っている。これまでの人口移動の流れを強引にでも継続させようとしたら「移民」をたくさん受け入れる以外の選択肢はもはやないだろう。私は「移民」の受け入れには基本的には賛成なのだが(私は政治的にはリベラルなので)、現在のEUの「難民問題」による大混乱ぶりをニュースで見るたびにこれは相当、難易度が高いなと思わざるをえない。よって、都市人口を増加させることで経済成長させることはもう断念して、別の道を選択すべきだろう。そもそも経済成長の原動力はイノベーションである。イノベーションを促すための統計的に最も有意である方法は(産業を集積させることよりも)一人ひとりの質を高めること、すなわち「教育」環境を充実させることであると都市経済学者のエドワード・グレイザーはCity Journalの「Wall Street Isn’t Enough」(2012年春)の記事で論じている。よって、私はこのような「量から質へ」の価値転換がこれからの日本には必要であると考える。(先日、ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏が記者会見(2016/10/3)で、現在の日本の研究環境の悪化を憂いていた(研究予算の削減が続いているので)のが記憶に新しいが。)

さて、ここまででずいぶん長文になってしまって大変に申し訳ないのだけど、ここまでは「東京一極集中」の賛否に関するいわゆる“一般的”な話である。というか、とりあえずそのいわゆるな話を簡潔にまとめて整理しておこうという意図から書いたので、まぁ、そういうことであるのだが、ここから先は「東京一極集中」の賛否に関するそれとは少し異なる論点を提示してみようと思う。

ところで、私がブログ記事を書くのは実に1年半ぶりで(今はツイッター廃人である)、そんな私がすごく久しぶりにブログ記事を書こうと思ったのは、一昨日のBLOGOSに転載されたSYNODOSの「都市に住むことの本当の価値とは?――「東京一極集中の弊害」論の誤り / 『東京どこに住む?』著者、速水健朗氏インタビュー」(2016/10/6)の記事を読んで少し違和感を覚えたからである。しかし、私は過去に同氏の著書『都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代』(2012/8/10)をブログ記事で思いっきり批判したことがあって、すると今回は2度目になってしまうので、もし私が逆の立場だったら非常に“鬱陶しい奴”にしか映らないだろうなと想像するのは難くないので、再び批判的なブログ記事を書くか、それとも無難にスルーするかで大いに悩んだのだが、私がそのブログ記事を書いたのはかなり昔のことなので、もう時効なのではないかと思われる。よって、前述のSYNODOSの記事へのやや批判的なブログ記事を今回書くことにした。この判断にそれほど自信があるわけではないが、今回のこの双方の意見の相違から「東京一極集中」の賛否に関するより良質な議論へ、更にはより広い意味での新しい「東京論」へ展開するささやかなきっかけにでもなれば幸いである。いずれにせよ、それらについては今回のこの私の記事を読まれた皆さまに委ねるとする。

さて、前述の速水健朗氏インタビューの記事を読んで私が少し違和感を覚えたのは、まず第一に「東京一極集中」への批判は「嫌経済成長」「反資本主義」であると同氏が見なしている点である。私はそこまで強くは言えないし、そもそも「東京一極集中」は経済成長をもたらしているのだろうか? 今回の私のこの記事の冒頭に「先月、私は「「東京一極集中」が経済成長をもたらすという証拠はない?」と題したtogetterをつくった」と書いたが、これはそれへの疑義である。

第二に、同氏が今の東京の「都心回帰」は「自然な流れ」であると見なしている点である。私はつくづく思うのだが、この「自然」という言葉は非常に“有能”である。日本人は古来から「自然との共生」を好んできたせいか、この「自然」という言葉を使われるとその雰囲気だけでつい納得してしまったりするので、私は用心するようにしている。と言うのも、日本の建築家たちもこの「自然」という言葉を多用するのである。あまり大きな声では言えないが、日本の建築家たちはこの“魔法の言葉”を使うことでクライアントを煙に巻いているのではないかと私は疑っている。とは言え、「自然」とは何か? を問い始めると途方もなく哲学的な話になるだろうし、かなりの高確率でしょうもない話になるだろうから(ホッブズ、ロック、ルソーでは「自然」という言葉がそれぞれ違う意味で使われているうんぬん)、これ以上は書かないでおくが、仮に東京の「都心回帰」が「自然な流れ」であったとしても、その「自然な流れ」が都市に経済成長をもたらしているかどうかは全く別の話である。「自然な流れ」に委ねるよりも都市に経済成長をもたらす合理的な都市政策があるならば、それを採用したほうが良いのではないだろうか?

また、アメリカの大都市でも確かに2000年以降に「都心回帰」が起きているが、だからと言って「郊外化」が止まったという話を私は聞いたことがない。それにも関わらず「都心回帰」は「自然な流れ」で「郊外化」はそうではないと同氏が見なしているのはちょっと理解できないし、また、都市経済学者のリチャード・フロリダは先日CityLabに掲載された「What if no one is actually bowling alone?」(2016/10/2)の記事で「都心」の暮らしと「郊外」の暮らしは実はたいして違わないと論じている。更に、リチャード・フロリダは「都心回帰」による地価(家賃)の上昇はイノベーションの妨げになるとも論じていたはずである。前述したように、経済成長の原動力はイノベーションである。「都心回帰」はそれを阻害している可能性も考えられるのではないだろうか?

そして第三に、「東京はエコである」(都市集中はエコである)と同氏が論じている点である。これも本当なのだろうか? 「東京はエコである」と主張される時に決まって用いられるのは「交通」に要するエネルギーの話である。確かに自動車よりも鉄道のほうがエネルギーを消費しないし、東京での主な交通手段は鉄道であるから「東京はエコである」と思えるのかも知れない。しかし、それはあくまで消費されるエネルギーを「交通」に限定した場合である。消費されるエネルギーの「全て」を合計した場合では東京都が消費するエネルギー(一人当たり)は都道府県別でワースト10以内にランクインしている。東京都よりも上位にランクインしているのは北海道や青森県など寒冷地にある都道府県のみで(寒冷地では暖房でエネルギーを多く消費する)、それら寒冷地にある都道府県を除くと東京都がワースト1位となる。よって、「東京はエコである」は正しくないと言わざるをえない。ところで、なぜそうなるのだろうか? その理由は実は身も蓋もないことで、消費されるエネルギーは「所得」と強い相関関係があるからである。東京都で消費されるエネルギー(一人当たり)が多いのは東京都の平均所得が高いからに他ならない。つまり、都市の経済成長とその都市がエコであるか否かはトレードオフの関係となっているのである。よって、仮に「都市集中」が経済成長をもたらしているならば「所得」も上昇してその都市で消費されるエネルギーは増大するので「都市集中はエコである」は正しくないということになる。逆もまた然り。速水健朗氏はこのインタビュー記事で都市の経済成長とその都市がエコであるか否かはあたかも両立しているかのごとく語られていたが、それは二兎を追っているようなものである。

では最後に「東京はエコである」(都市集中はエコである)に関して上記とはまた違った論点を提示しておこうと思う。自動車はCO2を大量に排出するのでエコではないと言われているが、その燃料の石油の元売り会社(ENEOS、出光興産、エクソンモービルコスモ石油昭和シェル石油など)の本社は全て東京にあって、東京に莫大な利益をもたらしている。なので、CO2の排出量は(法人税と同様に)本社の所在地でカウントすべきであるとは考えられないだろうか? そうすれば「東京はエコである」は全く正しくないことに誰しもがすぐ気づくだろう。こんな話は荒唐無稽と思われるかも知れないが、全くそんなことはない。東京に本社がある企業が工場を地方につくろうと海外につくろうと、その本社が所有してその本社に莫大な利益をもたらす工場からCO2が排出されることに変わりはないからである。現状では排出されるCO2が本社のある東京の排出量としてカウントされていないというだけである。つまり、これは人為的な“カウントの仕方”の問題にすぎないのである。NIMBYになってはいけない。東日本大震災(2011/3/11)で被災した福島第一原発は東京に電力を供給していたのだが、なぜこの原発は東京にではなく福島にあったのだろうか? この問いの答えは「東京一極集中」の真の正体を明かすもう一つの答えである。五十嵐泰正他著『常磐線中心主義』(2015/3/26)に詳しく書かれているように、地方と東京は対となる空疎な概念なんかではなくて、距離のグラデーションでしっとりつながっている。「東京一極集中」は弊害か否か、今こそより一層の議論が求められる。