もし建築が「リボン」を付けたら――Architecture of Ribbon

 
あっという間に9月です。早速、このブログのタイトルの画像を変えてみた。今回のタイトル(→画像)の画像元は、初音ミクの「恋愛フィロソフィア」(2012年)の動画(→動画)です。作詞・作曲は黒うさPです。前に本ブログの「追記(2012/6/3)」の記事に載せた、初音ミクの「千本桜」(2011年、→動画)の作詞・作曲をされた方と同じです。一応、前回のタイトル(→画像)は「夏」で、今回のタイトルは「秋」をイメージしていますw。秋と言えば、読書の秋、哲学(philosophia)の秋だろうという事です。でも、ブログのタイトルの画像は、今後もその時の気分でコロコロ変えると思うので(ワラ)、お気になさらないで下さい。。

では、えーと。久しぶりに、僕がノート(落書き帳です)に描いた「アイコン建築*1のドローイング」をブログに載せます。ま、と言っても、これはかなり前(2012年4月頃)に描いたもので、半年前(2012年3月)の本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事と、「木々の家、ガルウィングの家」の記事の続き(続編)になります。今回のタイトルは「リボンの建築」(Architecture of Ribbon)です。では早速、下図参照。

うーん。ま、見ての通りです(おいおいw)。

ま、本当に、とくに説明する事はないのだけどw、難解*2な説明がいらない事が「アイコン建築」の長所ではないかと思います(ほんとか?w)。

見ての通り、「小屋型」のアイコンと「直方体」のアイコンを「リボン」のアイコンで結んでいる、というデザインです。これが基本形(形式)で、上図の一連のドローイング(アイコン建築)は、そのバリエーション(変型、変奏)になります。ま、大体だけど、上図の上段は「リボンの住宅」、中段は「リボンの商業施設」、下段は「リボンの集合住宅」になります。

前に本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事に載せた「リボン付きのラートハウス」(→画像)でも「リボン」のアイコンを用いているのだけど、そこでの「リボン」はかなり装飾的(デコレーション)だったと思います。それに対して、今回の上図の「リボンの建築」での「リボン」は、それ自体が一つのアイコン(記号)であると同時に、前に本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事で載せた「土星の家」(→画像)での「板状のボリューム」のように、異なる二つのアイコンを接合している形態でもあるのです。ま、要するに、単なる装飾ではないのです。複数のアイコンの相関関係(文法*3)も表しているのです。前述の本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事の注釈7に書いた、オーストリアの建築家のオットー・ヴァーグナーが設計した「ウィーン郵便貯金局」(→写真、1912年竣工)のボルトの頭部(→写真)が「構造を明示する記号」である事と同じです。*4

とりあえず、説明は以上です。

ちなみに、上図の中では、僕は一番右下のドローイング(リボンの集合住宅)が一番気に入っています。ま、でも、「リボン」のアイコンで「結んでいる」と言うよりは、「束ねている」と言ったほうがいいのかも知れません(ははっw)。

では、次。下図は「リボン」を「新体操のリボン」のように、くるくるにしてみたバージョンです。

うーん。ま、見ての通りです(ははっw)。

これは本当に説明する事が一つもないのだけどw、ま、強いて言えば、くるくるの「リボン」は、前に(僕の)別ブログの「物憂げな6月の雨に打たれて」の記事の注釈8に載せた、「The Indicator: Distractions」(ArchDaily、2011年5月26日)の記事の「portrait of a zeitgeist」の絵と似ているのかも知れません(一応、「Zeitgeist」(ツァイトガイスト)はドイツ語で「時代精神」という意味です)。または、前に本ブログの「鉄道の未来学――新幹線の未来(の続き)」の記事に、「もはや現代の日本は、何もかもがこんがらかった糸である。」*5と書いた事と、どこかで繋がっているのかも知れません。いずれにせよ、現代の日本は、スリも、いじめ*6も、盗みも、犯罪も、他人のブログ記事からの無断盗用も、皆が見て見ぬふりをする社会です。あ、そう言えば、最近、実業家のひろゆきが書いた「「いじめっ子」を探しても見つからない理由。」(2012年8月18日)のブログ記事を読んでみて、本質をついていると思いました。そのブログ記事の最後の部分を引用すると、「(前略)僕の知る限り、いじめをする側として表現したのは、小山田圭吾さんぐらいです。小山田圭吾さんがやったいじめ自体は悪いことですが、いじめをしてた事実をメディアで公表した大人としては評価できると思います。「いじめをしたと告白すること」自体は評価しないと、子供もいじめをしたことを告白しなくなりますしね。」との事です。うーん。でも、ほとんどの人は「告白」はしないでしょう。するわけがありません。それが人間です。または、私たちは社会の自発的囚人*7です。社会が社会であるために、私たちはどこまでも“悪”(偽善者)になれるのです。

話がそれてきた(orz)。

ま、端折って、この話の結論だけを書くと(おいおい…)、第一に、現代社会は全てがフェイク*8である事。第二に、僕が描いている「アイコン建築」も(言うまでもないけど)純然たるフェイクである事。よって、僕が描いている「アイコン建築」は、現代社会(時代意志*9)を真正(authentic)に表現しているのである、という事です。または、逆説的な言い方をすると、フェイクこそが私たちの現実(リアル)なのです。ま、もちろん、そんな事はない、れっきとした現実(リアル)は存在する、と言われる方もいるでしょう。でも、そんな貴方も決して「告白」はしないのです。するわけがありません。それが人間です。私たちは社会の自発的囚人です。私たちは本当の現実である自然界にせき立てられるまではフェイクを生き続けるのです。政治哲学者のハンナ・アーレントは前述のような偽善(「仮面」)は公共的な活動であるとして肯定したのだけど、そもそも「公共善」という概念のない日本では、社会の「空気」を乱さないために、フェイクであり続ける事を自己目的化するという状態になるのではないかと思います。これでは近いうちに「悪循環」(または「大停滞」)に陥ってしまうでしょう。

そして、この「悪循環」から脱するには大きく分けて3つのアプローチがあると僕は思います。第一に、西欧社会での「公共善」を日本社会にも涵養する事(近代化を進める事)。第二に、その「公共善」に適った仕組みをつくる事(例えば、人間は「告白」はしない生き物なのだから、公共に関わる事については「情報公開」を徹底する、等々)。そして第三に、前に本ブログの「鉄道の未来学――2011年の鉄道とその未来」の記事の最後に少し書いたように、フェイク(エクリチュール)を「再構築」するという事、またはフェイクの「拡張現実」を試みるという事です。僕が描いている「アイコン建築」は、この第三のアプローチに該当します。現在の日本の多くの建築家は相変わらず、前述の第一のアプローチに傾倒しすぎているのではないか、と思う時がたまにあります*10。とりあえず、以上です。ま、でも、本当に重要な問題は、こんな話とは全く別のものでしょう(おいおいw)。やはり、21世紀の最重要キーワードは、「イノベーション(技術革新)」でしょう。「イノベーション(技術革新)」から社会の隅々にわたる全てを演繹しなければならない、と言っても過言ではありません(キリッ)。

ではまた。

(念のため、今、この記事を読み返してみたのだけど、話が想定外の方向へ飛んでいて、つくづく自分が嫌になった(ワラ)。「リボンの建築」の話は一体どこへ行ったのか。でも、せっかく書いたので、このまま「公開ボタン」をクリックしますw。「乱文失礼」にはなっていないとは思います。。)

【追記】

拡大してみた。「リボンの建築」の中で、僕が一番気に入っているドローイング(リボンの集合住宅)と、「(新体操の)リボンの建築」の中で、僕が一番気に入っているドローイング(リボンの家)です(下図)。ま、でも、拡大しすぎてしまって、実物大(実際に僕がノートに描いた大きさ)よりも一回り大きいですw。

*1:アイコン建築」とは、前に本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事で書いたのだけど、「僕の定義では、「アイコン」(記号や情報)と「建築」(物質や物理)をハイブリッド化した建物」の事です。詳しくは、本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事の注釈3を参照。あと、今までに僕が描いた「アイコン建築」は、本ブログの「・作品一覧」の記事にまとめて全部載せています。これを見て頂くと、「アイコン建築」とは何か(?)は一目瞭然です(たぶん)。百聞は一見にしかず。

*2:(僕の)別ブログの「情報化を経ることで新しい発動を見せるのだ」の記事参照(「(磯崎新が設計した)「水戸芸術館」(中略)の唯一の欠点は「わかりにくい」という事だと思う。おそらく、80年代にそのような「難解」な建築が成立できた背景には、近代的、平均的、中流的な「大きな物語」が共有されていて、そこからの逸脱(ポストモダン化)に価値があるとされていたからである。一方、(中略)21世紀の今日の「メインカルチャーはもはや存在せず、サブカルチャー島宇宙が乱立するだけのこの世界」(宇野常寛)においては、前述の80年代の方法に価値がある(あった)と認識する事は絶望的に不可能なのである(中略)。よって、21世紀の建築は「アイコン建築」なのです(キリッ)。」)

*3:本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事参照(「モダニズムの建築家のミース・ファン・デル・ローエは、「二個の煉瓦を注意深く置くときに、建築が始まる。建築とは、厳密な文法をもつ言語であり、言語は、日常目的に散文として使える。また言語に堪能な人は、詩人になれる。」と述べているのだけど、その文にある「煉瓦」を「アイコン」に置き換えたのが「アイコン建築」です。」)

*4:田中純著「建築のエロティシズム―世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命」(2011年)の第1章「オーストリアの終焉」より(P.34-35)。詳しくは、その本ブログの「流れ星の家、土星の家、リボン付きのラートハウス」の記事の注釈7を参照。

*5:Mr.Children、「everybody goes 〜秩序のない現代にドロップキック〜」(1994年)の動画も参照。歌詞を少し引用すると、「(※要請により歌詞削除)」

*6:本ブログの「エクソダスあるいは原発の自発的囚人――Exodus, or the Voluntary Prisoners of Nukes」の記事参照(「大津いじめ自殺」)。関連して、本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」注釈4の記事も参照(AKB48、「軽蔑していた愛情」(2007年)の動画歌詞を少し引用すると、「(※要請により歌詞削除)」)

*7:茂木健一郎のツイートをまとめた「自由意志が存在しないという、世界観」(トゥギャッター、2012年9月1日)も参照

*8:Mr.Children、「フェイク」(2007年)の動画歌詞を少し引用すると、「(※要請により歌詞削除)」

*9:(僕の)別ブログの「別世界性」、「アイコンに擬態」の記事参照(「建築は空間に表現される時代の意志である。(中略)建築は全てそれが出現した時期と密接な関係があり、その時代環境の生活業務の中でのみ解明できることを理解しなければならず、例外の時代はなかった。」、ミース・ファン・デル・ローエ

*10:本ブログの「超水平と超垂直」の記事参照(「感傷的な概念としての「近隣」は都市計画にとって有害です。(中略)感傷性は、まともな判断のかわりに甘ったるい善意に働きかけるのです。」、ジェイン・ジェイコブズ著「アメリカ大都市の死と生」)