鉄道の未来学――幹線の鉄道の未来

(前回の「鉄道の未来学――大都市の鉄道の未来」の続き。)

えーと。8月と同様に、9月のニュースをまとめてブログに書こうと思ったのだけど、集めたニュースがあまりにも多すぎたので、途中で止めました(おいおい…)。ま、そのほとんどは、「世界経済が低迷」とか、「世界経済が急降下」とか、「世界経済が危機的な段階に」とか、「世界経済が危険な新局面に」とかのニュースです(ワラ)。現在進行中のニュースはまとめにくい。もちろん、良いニュースもあるのだけど、とりあえず、ピンポイント的に、国内のニュースを2つ書いておきます。「<基準地価>全国平均の前年比下落率は3.4%」(毎日新聞、2011年9月20日)と、「首都機能移転、75%賛成 世論調査、震災で一極集中に懸念」(中国新聞、2011年9月18日)です。

まず、後者に関しては、前に(僕の)別ブログの「幸せの種」注釈8、「散らかってる点を拾い集めて」、「新たな国づくり」、「Googleplex & iSpaceship」等の記事で書いたように、僕は「首都機能移転」に大賛成です。「【中国ブログ】日本は「福島遷都」で世界に向けて安全証明を」(サーチナ、2011年9月20日)、「今角栄が生きていたら「東北に第2の首都を」と呼びかけたか」(NEWSポストセブン、2011年9月1日)も参照。
そして、前者に関しては、そのニュースの報道の仕方(「東京偏向報道」の問題)について書こうかと思った(例えば、産経新聞は、同じニュースなのに、比較するデータを工夫して、「大阪の“凋落”が浮き彫りとなった」と報じている。また、後者の「首都機能移転、75%賛成」のニュースは、中国新聞以外は報じていない)のだけど、「東京偏向報道」の問題はまるで触れてはならない日本の“タブー”のようである。その背後に恐ろしい圧力でもあるのだろうか(おいおい…)。また、建築系の雑誌やサイトでも、その多くが「東京」に偏向した評論になっている。背後に恐ろしい言論弾圧でもあるのだろうか。ま、さすがにそれはないと思うけど、いずれにせよ、社会が「成熟」した今日では、おそらく建築系の評論はすでに「市場化」されていて、「事実」や「公正」や「学問的な正しさ」等のナイーブな理念や信念は、とうの昔に葬り去られているのである。そこにある理由(インセンティブ)は、「事実」や「公正」等を重んじるよりも、「東京」の巨大デベロッパー(土地所有者)に迎合したほうが「儲かる」からに他ならない。別言すれば、建築家・都市計画家のレム・コールハースが、著書「コールハースは語る」(2008年)で、「文化も市場経済の一部になってしまった」(P.46)と述べているように、建築系の評論も「市場経済の一部になってしまった」のである。(僕の)別ブログの「雑記3」の記事参照。一方、東京在住者にとっては、「東京偏向報道」ほど「耳に心地いい」報道はないだろう。「東京」に住んでいる私、「東京」を愛している私、等々の愛らしい子犬のようなアイデンティティ*1を、巨大な報道機関等が圧倒的に支えてくれているのだから。また更に、東京在住者は「耳に心地いい」報道に甘んじている事の代償として、理性や「外部」に対する感覚やメディア・リテラシー等は奪われて、もはや「東京偏向報道」がされているという事実にすら気づく事はないだろう。これは、前に(僕の)別ブログの「雑記6」の記事で、ブラーの「The Universal」(1995年、→動画)という曲の歌詞の一部、「(※要請により歌詞削除)」を引用したのだけど、それが実際に起きているのかも知れない(「(※要請により歌詞削除)」)という事である。またこれは「東京一極集中」の弊害の一つであると言えるだろう。うーん。ま、とは言っても、「市場」のシステムが全域化した今日においては、その「市場」のルールに抗って生きる事の実践的倫理の話ではリアリティーがないし、「市場」というモンスターを囲い込めるだけの理性や平等の公式が存在するだろうと信じる事も容易ではない。いずれにせよ、「打つ手」(部分解)ならあるだろうけど、その先の「答え」が分からない。でも、その「答え」を僕らが知る前に、日本の経済(国家の財政)は破綻するだろう。それは前々回の「鉄道の未来学――新幹線の未来(の続き)」の記事で書いたような、「時間稼ぎ」をする事にかけては最大級の情熱と知恵(または狡猾さ)を発揮してきた人々が、同様の行いをする人々の数の圧倒的な多さによって、集団まるごとが自壊するという出来事である。もちろん、僕はそうならない事を願っている。でも、「時間切れ」のベルは鳴るだろう。*2

では、前回に続いて、梅原淳著「鉄道の未来学」(2011年)からの引用です。書くペースを上げます。

■第三章 「幹線の鉄道の未来」

(前略)筆者はマスメディアでコメントを行う機会をいただくことが多い。その際、マスメディア側の担当者が決まって言うことがある。
「日本の鉄道は『外国』と比べて優れていますよね」と。
(中略)日本の鉄道は確かに発達している。これは間違いない。だからといって、外国と比べる必要はないだろう。外国には外国の、日本には日本の事情があって鉄道が存在しているからだ。
(中略)筆者から何とかして「日本の鉄道のほうが優れている」というコメントを引き出そうとあまりにしつこく食い下がったものだから、筆者はこう答えた。
「日本の鉄道は大正時代までに主要な幹線が整備されたいっぽう、地形上の制約から高速道路網の構築が他の先進国と比べて遅れたため、旅客の輸送量が大きく落ち込まなかったからです。貨物の輸送量は高速道路の有無に関係なく、昭和50年代以降一貫して落ち込んでいます」
(中略)日本の高速道路網は1990年代になってようやく整備されたため、JRの幹線は旅客輸送の需要を維持することができた。(中略)しかし、(幹線の鉄道が維持できなくなる理由で)これからは高速道路との競争に敗れたからという理由が増えてくるだろう。(P.144-145)

ここから先は、著者はJR東日本の特急「さざなみ」と1997年に開通した「東京湾アクアライン」の競合を詳しく説明している。「(前略)ところが、神奈川県川崎市と千葉県木更津市との間を結ぶ東京湾アクアラインという自動車専用道路が(中略)開通すると「さざなみ」をめぐる状況は一変してしまう。この特急で東京と内房線内との間を行き来していた利用客の大多数は東京湾アクアラインを自家用車や高速バスで移動することとなったからだ。」(P.146)、「「さざなみ」をたたきのめした東京湾アクアライン経由の高速バスで比較してみよう。特急ならば東京―館山は1時間50分台前半、高速バスは1時間50分前後から2時間ほどと互角だが、後者は東京都内の都心部での交通渋滞もあり、一定しない。にもかかわらず、高速バスが「さざなみ」を圧倒しているのは一にも二にも運賃が安いからだ。「さざなみ」の場合、普通車自由席を利用して運賃・料金は3510円、対する高速バスは34パーセントも安い2300円。これでは勝負にならない。」(P.151)です。ついでに、「高速バスと新幹線 熱い乗客争奪、福岡〜熊本間で」(読売新聞、2011年6月3日)も参照。

割とどうでもいい事なのだけど、上記の写真は、(僕の)別ブログの「Kinkyo-1」の記事参照(「「会いたかった」のPVのロケ地(=館山市)がすぐ分かった僕は、元千葉県民。」、→動画*3。この写真(とPV)の「のほほんとした脱力感がありまくり」の景色は、いかにも千葉県です。心が落ち着きます、和みます。ま、千葉県は気候が穏やかで、海の幸山の幸に恵まれていたので、「のほほん」としてしまうのは当然なのかも知れない。と言うか、書くペースを上げます(汗)。

 筆者の経験から言って、JRの幹線を行く普通列車1本当たりの連結両数は4両から6両が多い。輸送力は1列車当たり350人から700人といったところで、多すぎず、少なすぎずと言ったところか。
 残念ながら、終日この両数では利用客の増減にはなかなか対応できない。通勤、通学客でごった返すラッシュ時には不足し、日中の閑散時には空気を運ぶ(空席だらけ)という状況になる。そこで、きめ細かく列車の連結両数を変える作業が必要だ。とはいえ、(中略)このような作業を駅や車庫で行うとなると、余分に線路が必要になるし、担当者も確保しておかなくてはならない。車両の運用も複雑になるので、列車ダイヤが乱れると回復に時間がかかる。ということで、連結両数を変更しないとまではいかないまでも、最小限にとどめたいと考えるのは当然だ。
(中略)混雑時と閑散時との快適性は両立しづらい。(P.153-154)

上記の「混雑時と閑散時との快適性は両立しづらい」に関しては、唐突かも知れないけど、ジェイン・ジェイコブズ著「アメリカ大都市の死と生」(2010年、新訳)の第8章「混合一次用途の必要性」(のP.178-189)に書かれている事と、よく似ていると思いました。ま、とりあえず、注釈(→*4)に引用しておきます。そのうち詳しく書きます。

ここから先は、著者は、鉄道車両の座席(「クロスシート」と「ロングシート」)の一長一短を解説して、「未来の幹線の普通列車は大都市圏の通勤形の車両と同じようにロングシートが主流となり、クロスシートは姿を消すか、少数派になるだろう。」(P.156)と述べているのだけど、大ざっぱにまとめると、前に本ブログの「鉄道の未来学――日本の鉄道の現状と新幹線の未来」の記事で、「極端にして言うと、「日本の鉄道」は、ほぼ「新幹線」と「大都市の通勤電車」の2つで成り立っている、それが「日本の鉄道の現状」なのである」と書いたように、そのいずれにも属さない「幹線の鉄道」が運行を続けるには、かなり厳しい状況になってきている、との事です。そして、

 寝台列車の未来は明るくない。車両は、JR化後に新調された「カシオペア」「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」を除いて皆国鉄時代の1970年代に製造されたものばかりだから、寿命が近づいている。といって新車に置き換える計画も聞かれないから、車両の引退が即寝台列車の消滅に結び付く可能性が高い。
(中略)率直に申し上げて、夜間を利用して長距離を移動する寝台列車が必要な区間はもはや存在しない。このような区間では夜行の高速バスが走っていて、旅客の需要をまかなっているからだ。(P.164)

 JRの幹線と言えば貨物列車を忘れてはならない。
(中略)貨物列車の未来は安泰かというと筆者にはそうは思えない。確かに、トラックと比べて環境負荷が低いという利点を生かし、モーダルシフトと呼ばれる貨物列車への移行が2000年代半ばに盛んとなった。ところが、リーマン・ショック*5によって日本経済が不況となるとそれどころではなくなり、JR貨物は大幅に業績を落としてしまう。今後、日本経済が急成長を遂げるとは言い難い状況だから、貨物列車の苦境は続くはずだ。(P.166)

うーん。以上です。

第三章「幹線の鉄道の未来」はここまで。では。

鉄道の未来学――超電導リニアの未来」に続く。(あと、下記の「平成23年都道府県地価調査――地価の上昇・横ばいが見られた例」の記事に、冒頭のニュースに関する補足を少し書いた。)

*1:本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」注釈6の記事参照(「アイデンティティ」、→動画

*2:(僕の)別ブログの「東日本大震災からの復興とポストモダン」の記事参照(Mr.Children、「未来」(2005年)、「そして今僕の目の前に横たわる/先の知れた未来を/信じたくなくて 目を閉じて過ごしている」、→動画)。あと、本ブログの「8月のニュース-2」の記事参照(「国の借金:過去最高の943兆8096億円…6月末」(毎日新聞、2011年8月10日))。「国と地方の借金、個人資産1110兆円上回る?」(読売新聞、2011年9月18日)も参照。ところで、政策研究大学院大学の松谷明彦教授は、著書「人口減少時代の大都市経済―価値転換への選択」(2010年)の第1章「行き詰まる大都市」で、日本の国債の「永久公債」化を提案している。もちろん、僕には何の事だかさっぱり分からなかったのだけど(汗)、とりあえず、引用しておきます。分かる人には分かるのでしょう。「人口減少時代の財政に求められているのは、行政コストを最小限に抑える努力であり、目指すべきは、必ずしも「小さな政府」ではなく、「小さな財政」である」(P.99-100)、「(前略)いずれにせよ、予算を九・五%程度削減すればいいのであるから、現在の財政支出の実態からみて、それほど困難な問題ではない。つまり財政収支への対応ということであれば、増税の必要はまったくないのである。ただし(中略)、時間が経つほど困難になる。(中略)さて、毎年の財政収支については比較的容易に解消し得るとして、問題は二〇一〇年度末には九〇〇兆円にも達しようかという債務残高である。すでにその元利払いが国・地方の予算のかなりの割合を占め、しかも年々その割合が増加している。(中略)どうすべきか。二つの途がある。一つは、もちろん無理をしても「できるだけ早く」返済する。そしていま一つは「棚上げ」にする。前例がないわけではない。いわゆる「永久公債」である。永久公債として有名なのは、イギリスのコンソル債であり、一八世紀に発行され、現在も国の債務として残っている。償還の時期を国が選択できるというもので、最初から永久と謳っているわけではないが、事実上、元金を償還しない国債である。ただし金利だけは毎年払い続ける。そうした永久公債を発行して、現在の国債、地方債を借り換えるのである。償還費が不用になって、財政は安定し、政策の自由度も広がる。永久公債は、株式のようなもの(ただし配当率が確定している)だから、保有者は市場で売却して資金を調達することができる。つまり永久公債を買った人が損をするわけではない。一方、永久公債の金利は、十年債、二十年債より少し高くなる程度で、納税者もさほど損をするわけではない。残る問題は、財政運営に関するモラル・ハザードだが、その点は、以後の国債、地方債の発行を厳格に禁止することで防止できる。つまり誰も損をしない。一方、きちんと返済しようとすれば、おそらく大規模な増税が必要になる。しかもその増税によって、行政サービスが向上するわけではない。(中略)むしろ行政サービスは低下する可能性が高い。この場合、国債、地方債の保有者は、元金が戻るだけだから、得も損もない。そして保有者を含め全国民が損をする。どちらを選択するのか、日本人全体で判断すべき問題だが、筆者としては、長期的に考えてはどうだろうかと思う。増え続けた人口が減少する。拡大一方だった経済が縮小する。一八〇度の時代の変化のなかで、従来の時間軸で物事を処理しようとすれば、どうしても無理が出る。もちろん適切な財政政策であるとの説明は難しい。しかし累積赤字が増税に積極的な論拠を与え、財政支出の削減へ努力が向かっていない感がある。短期でつじつまを合わせるのではなく、長期でつじつまを合わせる。人口減少社会の一つの知恵ではないかと思うのだが。」(P.101-103)。狐につままれたような話で、僕にはよく分からないのだけど、ポイントは、「国債、地方債」を返済するために「大規模な増税」をすると、「国債、地方債の保有者」までも「損をする」、のところではないかと思います。(僕の)別ブログの「Star House」の記事参照(同書)

*3:本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」注釈1(→動画)、「廃県置藩――Abolition of the ken system」注釈4(→動画)の記事参照(AKB48)。あと、「ガガさんイメージの奇抜衣装」(NHK、2011年10月2日)によると、「(前略)人間国宝菊五郎さんは、これまでも人気グループのAKB48やEXILEの音楽や踊りなど、最新の流行を積極的に歌舞伎に取り入れてきました。(中略)昔の歌舞伎も常に流行を取り入れて人々を楽しませてきたので、その心を忘れずにいきたい」と話しています。」です。と言うか、このニュースはテレビで観たのだけど、歌舞伎でAKB48の「会いたかった」を歌っている映像が流れて、驚いた(w)。「ガガさん」に関しては、(僕の)別ブログの「九州新幹線全線開業」追記の記事参照(レディー・ガガ

*4:都市思想家のジェイン・ジェイコブズは著書「アメリカ大都市の死と生」(2010年、新訳)の第8章「混合一次用途の必要性」で、「(前略)時間分布の重要性は、マンハッタンダウンタウンの先端(ロウアー・マンハッタン)を見ると特にはっきりわかります。この地区は、利用者が時間的に極端に偏っているために苦労しているからです。ここの従業者は四十万人ほどで、(中略)すさまじい数です。こうした利用者たちは、(中略)毎日すさまじい量の食事や他の商品の需要をつくり出します。でも、この地区はそのニーズに見合うだけのサービスやアメニティを提供するのが惨めなほどヘタです。食事のできるところや衣料品店は、需要に対して数の面でも種類の面でも、哀れなほど不十分です。(中略)ロウアー・マンハッタンの息を飲むようなスカイラインを形成する大オフィスビルのまわりには、停滞と衰退、空室と産業の残骸の輪が広がっています。(中略)何がいけないのでしょうか?」(P.178-179)、「何がいけないかを理解するには、そのあたりの普通の店に足を運んで、昼食時の大混雑と、それ以外の時間の閑古鳥を見ればすみます。夕方五時半以降や、土日終日このあたりに浸透する死のような静けさを見ればすぐわかります。ある衣服点の女性店員の話が「ニューヨーク・タイムズ」紙で引用されていました。「お客さんたちは雪崩をうってやって来るんです。正午から数分たったら、いつもすぐにわかります」。(中略)そして、新聞には書かれていませんが、二時少し前に店は完全に無人となります。」(P.179)、「ここの店の商売は、ほとんどが一日二時間か三時間ほどの間に詰め込まれることになります。週に十時間から十五時間。これほどの過少利用は、どんな工場だろうと悲惨なくらい非効率です。ある程度の事務所は、昼休みの群集相手の営業を思いっきり活用することで、こうしたオーバーヘッドを負担しても利益を出すことができます。でもその数はあまり多くはなりません。それぞれの店が、その時間には十分な数の群集をかきいれなくてはならないからです。(中略)これは四十万人の労働者にとっての利便性とアメニティという点でどういう結果をもたらすでしょうか? かなりひどい状態です。」(P.179-180)と述べている。そして、「この地区の問題の根底にある、時間帯ごとの極端な利用者の偏りを有効に軽減するには何ができるでしょうか? (中略)地区が時間帯による人口バランスを実現するように、現在人のいない時間になるべく多くの人をもたらすべきです。」(P.182)、「現在では日中の人の分布が不均衡だというロウアー・マンハッタンの極端な条件は、他の地区にも同じくあてはまる、人を正気づかせるような原理をたくさん示しています。(中略)人々を日中の時間帯に散開させる必要性は無視できないということです。無視すれば、多様性を生み出す潜在力を潰してしまうことになるのです。」(P.185)、「そして最後に、有効性というのは、ある時間帯に街路にいる人々の混合比率が、他の時間帯に街路にいる人々の混合比率とある程度近い構成をもたなくてはならないということです。この点はすでに、マンハッタンの最南端に関する計画を論じるときに述べています。活気あるダウンタウンは、その中やごく近いところに住宅が入り込んでいるというのはよく指摘されているし、こうした住民たちが享受して支えるのを支援する夜間用途があることもいわれています。(中略)住民たちはダウンタウンの日中、夜間、週末の利用がある程度バランスのとれたところで生じる、非常に複雑なプールの一部となっているのです。(中略)一次用途の混合として重要なのは、人々を経済的互助性のプールとして、いつも普通にどれだけ混ぜ合わせることができるかということなのです。これが要点であり、そしてそれは漠然とした「雰囲気」効果などではなく、実体のある具体的な経済的問題なのです。」(P.189)と述べている。最後の一文は重要です。あと、文中の「一次用途」に関しては、(僕の)別ブログの「散らかってる点を拾い集めて」注釈5の記事参照

*5:本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」注釈4の記事参照(「2008年の「リーマン・ショック」後の世界(世界観)」、→動画動画