アイコンの消失

今回は本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事の最後に書いた「アイコン建築」の「Subtraction House」(引き算の家)について書きます。これもその記事と同様、2011年3月11日に発生した東日本大震災以前(2月中頃)に描いたものです。大震災とは全く関係ないです、念のため。また、その記事で「アイコン建築」とは何かについて書いているのだけど、あくまでもあれは僕の定義で、一般的には「アイコン建築」とは「ドバイ中国の高層ビルのように、極端にわかりやすいキャラの造形をもつ建築のこと。」です。*1

では早速、これ(下図)。「Subtraction House」(引き算の家)は、この流れで作成した。

1. アイコンの措定(アイコンは1950年代に建てられた古い「団地*2」の写真にする。グレー色に変換する。)

2. 住宅化(「玄関ドア」と「窓」のアイコンを引く(アイコンを消去する)。内側にガラス面で囲まれた空間(居室)と植栽を足す。)

以上です。えーと。
今回の技法のテーマは「アイコンの消失」です。もちろん、これも「アイコン建築」の一つです。前に(僕の)別ブログの「Fabricated Space」の記事で描いた「Fabricated Space」(でっち上げられた空間)の技法のテーマは「アイコンの破壊」だったのだけど、それと今回のは、よく似ていると思う。その両者の違いは、「Fabricated Space」(でっち上げられた空間)は、「かつて措定されたアイコンの物理的・形象的な残骸を用いた表現」であるのに対して、今回の「Subtraction House」(引き算の家)は、「かつてそこにあったアイコンの記憶の心理的・心象的な残像を用いた表現」である、という事です。もちろん、両者がそれほどきれいに分類できるとも思っていないけど、それでも、「破壊されたもの」と「消去されたもの」(または「廃墟」と「更地」)では、破壊の質や強度が、かなり異なるのではないかと思います*3。「SF界の巨匠アーサー・C・クラーク氏がこの世の終わりを語った31ワード」(ギズモード・ジャパン、2011年2月25日)も参照。そうした感性(感受性)の違いが「アイコン建築」で表現できたらいいとも思います。*4

短いけど、以上ですw。

あと、おまけで、今回の案のラフスケッチはこれです(下図)。

まっ、
本当は上図のような通路(片廊下)の正面から撮った写真に描きたかったのです。でも、いくら探してもこのような写真は見つからなかった。と言うか、よく考えてみれば、このカメラアングルから写真を撮る事は物理的(空間的)に不可能だった(ワラ)。テレビの刑事ドラマ等でよく見かけるアングルなのだけど、あれはクレーンから撮影しているのだろうか。(ついでに、割とどうでもいいのだけど、今年の始め(1月頃)に、テレビで映画「容疑者Xの献身」(2008年公開、→予告編)をたまたま観た。すごい面白かったw。堤真一の演技につい魅入ってしまった。この映画にもこのアングルのシーンがたくさんあった。)
でも、日常にはないはずのアングルから撮影された映像を何の違和感もなく観てしまう(受け入れてしまう)というのも意外とおかしな話で、これは「人間(脳)がどのように空間を認識しているのか」という(都市計画家の)ケヴィン・リンチ*5的な主題にもつながるのだけど、この話はまた今度にする。(端的に言うと、物理的な空間と人間(脳)が再構成する空間は異なる、という事です。注釈(→*6)に少し書いておく。)

ともあれ、紙にペンでサラッと描いただけのラフスケッチを、そのままパソコンで清書(再現)しようとは思わないほうがいいのかも知れない。ちなみに、前に本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事に載せた「Valentine House」(バレンタインの家)は、じつはラフスケッチを描かずに直接、パソコンで清書した。ま、わざわざラフスケッチを描くほどでもなかったと言えばそれまでなのだけどw、徐々に僕が「アイコン建築」の手つき(または空間感)に慣れてきたのかも知れない。たぶん、「アイコン建築」を作るコツは、抽象的・統制的な(トップダウン的な)空間を否定して、個々の記号(アイコン)が放つ芳香の繊細さや複雑さから、連鎖的に(ボトムアップ的に)空間を再構成する事と、その連鎖に用いる技法の論理化(一般化)を常に試みる事にあると思う。うーん。ま、でも、全く正反対のタイプの「アイコン建築」の「Valentine House」(バレンタインの家)と「Subtraction House」(引き算の家)を、ほぼ同じ時期(2月中頃)に描いていた僕はどうかしているとも思う(ワラ)。それとも、「愛」と「死」は相補的なのだろうか。以上です。*7

えーと。(ゴソゴソ…)

あと、更におまけで、上記の図(最終案)よりも先に描いて、即「没」(ぼつ)にした案もあるので、これも載せておく(下図)。

一応、上図のキャラクターは、ボーカロイド初音ミク(→動画*8動画*9)の表現を強調するために、より新しいキャラクターを用いようとしたのだけど、僕はアニメを全く見ないので、初音ミクひこにゃんくらいしか思い出せなかった(ワラ)。それと、上図を「没」(ぼつ)にした理由は、(上図が)僕の意に反して、例えば、「電脳ネットワーク化された個室にバーチャル・アイドルがやってくる(!)」といった物語(図式)と、完全に一致してしまったから(ワラ)w。

あと、おしまいに僕が「アイコン建築」を描いた順に並べてまとめておくと、大体、「Valentine House (バレンタインの家)」→今回の「Subtraction House」(引き算の家)→「東京計画2011」です。その後、「Picture Book House」(絵本の家)と題した「アイコン建築」の清書(パソコンで描く事)に取りかかったのだけど、あの日を迎えてしまいました。まだ途中です。あの日以降、僕は「アイコン建築」を一つも描いていない。うーん。今、途中まで描いた「Picture Book House」(絵本の家)の画像ファイルを開きながら、とりあえず作業を続けて仕上げるか、未完成のままブログに載せるか、それとも止めちゃうかで、悩んでいるところです。ま、と言うか、(僕の)建築論の方向性から再検討したほうがいいのかも知れないな。とりあえず、以上です。では。


(※要請により歌詞削除) *10

初音ミク、「初音ミクの消失」、2008年、→動画*11

*1:(僕の)別ブログの「ハイブリッド世界の本質」、前回の「超水平と超垂直」の記事参照(ドバイの高層ビル)

*2:(僕の)別ブログの「木賃アパートと団地」(→動画)、「ボロロ族の集落」、「明日の田園都市」、「World of Tomorrow の補足」、「Integral Project-3」の記事参照(「団地」)

*3:(僕の)別ブログの「超郊外の景色」、「Material World-2」、「Kinkyo-2」の記事参照(「廃村」)。「デトロイトの廃墟ガチ異常」(ハムスター速報、2011年1月23日)も参照

*4:(僕の)別ブログの「アイコンに擬態」の記事参照(「感性を「言葉に表す」ということ」)。(僕の)別ブログの「僕を育ててくれた景色」、「柏 マイ・ラブ」の記事参照(「ミスチルはこれを歌詞にしている、言葉に表しているのです。」、→動画)。そのミスチル歌詞を三度(みたび)引用すると、「(※要請により歌詞削除)」

*5:(僕の)別ブログの「悲しき熱帯II」の記事参照(「(ケヴィン・リンチの)「都市のイメージ」は「近代都市論をくつがえすほどの変革的出来事」となった」)。また、都市計画家の曽根幸一は、著著「都市デザインノオト」(2005年)で、「(ケヴィン・リンチの)都市観のもっとも卓抜した点は、(中略)それまで都市や環境が、機能とか構造といった抽象的な言葉でしかとらえられていなかったのを、眼にみえるものの操作という即物的でかつ感覚的な次元に引き戻した」事であると述べている。(僕の)別ブログの「物憂げな6月の雨に打たれて」(と注釈6)、「都市の原理」の記事参照(ケヴィン・リンチ、→動画)。あと、フランスの哲学者・思想家・数学者・物理学者・宗教家のブレーズ・パスカルは「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている。」と述べている(依田高典著「行動経済学―感情に揺れる経済心理」(2010年)からの孫引き。P.99)。(僕の)別ブログの「雑記&まとめ」の記事参照(「感性の「構造」」)。

*6:「人間は空間を飛躍して、自分のニーズに合わせて頭の中で空間をつくり直してしまう」、「私たちは頭の中で、距離と方向はあきれるほど無視する一方、位相的な関係についてははっきり示そうとする。(中略)伸びるゴムのシートの上に描かれた位相地図は、ゆがんではいても、空間の関係についてはいくつもの情報を伝えている。それと同じように私たちの頭の中にある地図は、空間の中を動くときには(中略)実に役に立つ。」、「私たちの頭の中にある地図は、物理や数学で説明できるものとはまったくことなっているが、ある意味、生きのびるために空間を支配したいという私たちの欲求と、記憶の限界をすり合わせたものだ。(中略)頭の中で空間を思い描き、様式化し、変容させることができる能力を持つ人間は、他の動物にはできない方法で自らを解き放ったのだ。」(コリン・エラード著「イマココ―渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学」(2010年)、P.130-135)。石川幹人著「人は感情によって進化した」(2011年)も参照(僕は未読)

*7:「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」(村上春樹著「」(1983年)。小島寛之著「数学的思考の技術―不確実な世界を見通すヒント」(2011年)からの孫引き。P.207、P.238)

*8:初音ミク ミラクルペイント」(2007年)の動画。(僕の)別ブログの「アイコンに擬態」の記事参照(同曲、「This remember me Hatsune Miku :D」のとこ)。あと、(僕の)別ブログの「森の木琴」の記事の、バッハ教会カンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」(→動画)を歌っているのも初音ミクです。(僕の)別ブログの「柏 マイ・ラブ」の記事も参照(「初音ミク」、→動画)。それと、「イギリス・Metro紙が一面で初音ミクさん特集!!」(ニュー速VIPブログ、2010年10月23日、→動画動画)も参照。(僕の)別ブログの「Star House」の記事参照(「都市空間と情報空間の「ハイブリッド」化が進んでいる」)

*9:初音ミク PIANO*GIRL」(2009年)の動画歌詞を一部引用すると、「(※要請により歌詞削除)」です。ま、と言うか、上図の元の写真(ラフスケッチに近いアングルの写真です)が、あまり古くないマンション(アパート)の写真だったので、時間差(時代の差異、時制((本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事参照(「時制」)

*10:前回の「超水平と超垂直」の記事参照(「針と球」の分離、「水平と垂直」の分離)

*11:初音ミク 初音ミクの消失」(2008年)の動画。(僕の)別ブログの「ハイブリッド世界の本質-2」追記の記事参照(「モーション・タイポグラフィ」)。「「難しすぎて歌えない曲」ランキング、TOP10発表」(BARKS、2011年5月13日)も参照w。「視点・論点」(NHK教育)の「"正義"を考える―裏返しの終末論」(大澤真幸、2011年3月8日放送)も参照