永久公債、国有不動産

■「永久公債」について

前回の「鉄道の未来学――幹線の鉄道の未来」注釈2の記事で書いた(松谷明彦著「人口減少時代の大都市経済―価値転換への選択」(2010年)で提案されていた)日本の債務の「永久公債」化について、(ネットで)少し調べてみた。(イギリスの「コンソル債」の他に)過去に日本でも「永久公債」が発行された事があるらしい。ウィキペディアの「調所広郷」の項によると、「明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し羽振りが良かったのは一世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。しかし、当時の薩摩藩の500万両の借金は年間利息だけで年80万両を越えており、薩摩藩の年収(12〜14万両)を越えており、返済不可能、つまり破産状態に陥っていた。「無利子250年払い」が踏み倒すも同然の処置であるのは事実だが、そのような「債務整理」を行うのはやむを得ない処置である。(中略)広郷の真価はその後の薩摩藩の経済の建て直しにある。膨大な借金を作るような体制を作り変え、甲突川の五大石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行うことにより、最終的には50万両にも及ぶ蓄えを生み出している。」との事です。この「無利子250年払い」が「永久公債」です。前に本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」の記事で、「明治維新」と「薩摩藩」に関して、ほんの少し書いたのだけど、意外なところで話がつながった(ワラ)。

ま、常識的に考えれば、「永久公債」は借金の「踏み倒し」でしょう(→動画*1)。でも、「国家」は特殊なので、常識を飛び越えて行けるかも知れません(おいおいw)。例えば、国家は次の二つの点で特殊(非常識)です。まず第一に、国家は正統(合法的)な暴力の独占を保持しているという事です。そして第二に、国家は無限(永久)であるという事です。えーと、債務の問題ではなく年金問題の話になってしまうけど、小島寛之著「数学的思考の技術―不確実な世界を見通すヒント」(2011年)*2の第5章「年金問題を数学から考える」から少し引用すると、「このところ、継続して「経済問題」なのが年金問題である。(中略)経済学者の筆者も、残念ながらこの問題を解決するうまい知恵は全く持ちあわせていない。それどころか、「どうしてここまでほうって置いたのですか」と末期の患者の前で嘆くドラマの中の医者のような気分でさえある。ここでは(中略)「年金問題の数学的構造」という、独自の観点から話をしてみたい。」(P.59)と述べてから、「ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス」と「賦課方式の年金制度」が同じ構造である事を説明して(P.59-62)、「国家というシステムは、このように「無限の本性」を利用できる利点がある。それが、個人や民間と国家とが根本的に異なる点だ。」(P.62)と述べている。もちろん、債務と年金制度は異なるので、直接は関係ないのだけど、このような「無限の本性」を債務の「棚上げ」に利用できるとよいのかも知れない。そして、著者は「(前略)このことをして、1970年にノーベル経済学賞を受賞したポール・サミュエルソンは、こういっている。「社会保障制度の素晴らしさは、それが年金数理的な会計上は破綻している、というまさにその点にある」。つまり、賦課方式の年金は、「決して破綻しないねずみ講」なのである。そう、人口が減少さえしなければ……。」(P.62-63)と述べている(汗)。うーん。社会保障制度はやがて「全額税方式」にでもなるのだろうか。「年金支給開始年齢 引き上げ検討へ」(NHK、2011年10月9日)も参照。

いずれにせよ、松谷明彦が(冒頭の)同書で、「目指すべきは、必ずしも「小さな政府」ではなく、「小さな財政」である」(P.100)と述べているように、今世紀の日本社会では、「財政」が最も重要なキーワードになるだろう。これは都市計画(都市論)や公共建築(論)にも敷衍するだろう。またおそらく、前に(僕の)別ブログの「フリーミアムが都市を征服する?」の記事で書いた「社会的共通資本」*3を整備する方向へと進むだろう。また、前に(僕の)別ブログの「麦わら帽子はどこへ行ったのか」注釈2の記事で、社会改良家のエベネザー・ハワードが描いた「マスターキー」のダイアグラムについて書いたのだけど、ハワードは「社会問題の解決」を目指していく事が「キーを廻す原動力」となる、と考えていたのです。つまり、「社会問題」は「逆手に取ればよい」という事ですw。債務の「永久公債」化については、もう少し調べてみる(ネットで)。以上です。

■「国有不動産」について

書くペースを上げます(汗)。
原理主義はもうやめよう 国有不動産」(アゴラ、2011年10月6日)のニュースが面白かった。とりあえず、二点だけ。まず第一に、前回の「鉄道の未来学――幹線の鉄道の未来」の記事で、「「市場」のシステムが全域化した今日においては、(中略)「打つ手」(部分解)ならあるだろうけど、その先の「答え」が分からない。」と書いたのだけど、このニュースを読んで、少し肩の荷が下りました。なぜなら、その先の抽象的な「答え」を考えても、埒が明かなかったから。それよりも、具体的な「打つ手」(部分解)を一つずつ提案したほうがよいのである、といった方針の後押しを得たような気がしている。もしかしたら、「市場」には、あらゆる抽象を呑み込む性質があるのかも知れない。それならば、尚更、都市の具体的な「土地」や「物理」と関わったほうがよい。そして第二に、そのニュースに「国は国有不動産を保有することにより有効活用すべきだ。」とあるのだけど、国は東京都心の超一等地に広大な土地(不動産)を持っているわけです。つまり、あそこです。永田町霞が関ですw。ま、何が言いたいかと言うと、「首都機能移転」をすると、この超一等地が空く、という事ですw。ここに超高層の賃貸マンション(「良質な賃貸住宅」)を建てまくって、「国有不動産」として有効活用すればよいのです。莫大な賃料収入は国庫を潤すだろう。「国民一人一人の増税額を緩和するために国有不動産を活用することが望ましいと考える。」と、そのニュースは結んでいる。と言うわけで、前回の記事でも書いたけど、僕は「首都機能移転」に大々賛成です。以上です。

あと、予定では、上記の「永田町・霞が関再開発計画(仮)」から、建築家のル・コルビュジエが提案した「パリのヴォアザン計画」(1925年)へと話をつなげるつもりだったのけど、また今度。とりあえず、(僕の)別ブログの「表記-4」、「表記-6」の記事参照。では。

*1:ウルフルズ、「借金大王」(1994年)の動画歌詞を少し引用すると、「(※要請により歌詞削除)」

*2:(僕の)別ブログの「ロマンチストとリアリスト」、「Valentine House (バレンタインの家)」注釈5の記事参照(同書)

*3:社会的共通資本とは、市民の生活を支えるさまざまな「有機的な装置」の総称である。自然環境や都市インフラや医療・教育・金融などの社会制度を包括する概念だ。宇沢は、社会的共通資本というものを、「市民1人1人が人間的尊厳を守り、魂の自立をはかり、市民的自由が最大限に保たれるような生活を営むために重要な役割を果たすような財・サービス」と規定している。このような性質を持つため、これらの財・サービスは、私有や私的管理や市場における価格的取引が許されず、社会の共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・維持されるものとするのである。(中略)特筆すべきことは、さらに、医療制度・学校教育制度・司法制度・行政制度・金融制度などの諸制度を、「制度資本」と呼んで、社会的共通資本の中に取り込んでいることである。(中略)これまでの経済学では、「環境」というのは、ある意味「やっかいもの」として扱われてきた。しかし、宇沢は、この社会的共通資本の理論を提出することによって、むしろ「自然資本」を含む社会的共通資本こそが、市場システムの不備と不安定性を補い、人間社会に豊かさをもたらすものだ、そう主張しようとしている。社会的共通資本の適切な管理・運用によって、市場システムは、十分な豊かさを与えながらも適切な節度を保つことが可能になる、そう論証するのである。(中略)不況というのが、貨幣的な現象であり、資本主義社会が宿命的に避けられないものであるなら、むしろその「社会の病気」を逆手に取って、不況下では効率性を備える「社会的共通資本の充実」を推進することが、不況への次善策的対処だと考えているのである。(後略)」(小島寛之著「数学的思考の技術―不確実な世界を見通すヒント」(2011年)、第2部「幸せな社会とはどういうものか」、第5章「お金より大切なものはあるか」、P.145-155)