形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして(全文)

これは僕が1年前に書いた拙稿「形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして」の全文です。その経緯は本ブログの「【お知らせ】同人雑誌「ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学」に寄稿しました」の記事を参照して頂くとして、今日、ツイッターで「僕が1年前に書いた「形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして」の冒頭の一部をブログに載せているのだが、そろそろ全文を載せていいですか?>関係者さま」と問いかけたところ、メールにてOKを頂きました。ありがとうございます。

というわけで、ここに全文を載せます。というか、本当の全文です。同人雑誌『ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学』へ寄稿したとき、字数制限の都合で大幅に削除したのですが、その削除前の原稿です。下記の文字の着色に関しては、赤い文字のところは引用文で、同人誌では反転文字になっています。青い文字のところは文字の強調で、同人誌では傍点です。

ま、久しぶりに読み返してみたのですが、はっきり言って、読みにくいですね(笑)。というか、不親切。引用文と引用文の関係の、その隙間を全く埋めていない。これはまずいと思って、少し書き足そうかと思ったのですが、ま、今回はとりあえず、そのままで載せておきますw。今ならもっと分かりやすく書けると思うけど、拙稿の内容(中身)に関しては、1年前の当時と今の僕のスタンスは何も変わっていません。では、載せます。

(追記:やはり、若干、書き足した。さすがにこれでは誰も読めない。。書き足した部分は緑色の文字で表します。)

形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして (ノエル)

■ プロローグ

 僕の学生時代の話からはじめよう。僕が建築学科に入って二年目の設計製図の演習の課題で、ある女学生(乙女チック)が「集合住宅」の図面一式とスチレンボードで作った建築の模型を置いて講評会で発表した。講評したのは大学教授(髭もじゃ)、准教授(メガネ)、講師(腕まくり)、建築家(白髪)等々の有識者一式であったのだが、その女学生が作った案を見るや否や、会場(製図室)の空気は一変した。そして落雷した。理由はその女学生が作った案が「少女マンガ」風だったからである。その案は、その女学生が日々放っているファンシーな雰囲気に勝るとも劣らず、乙女チックであったのだ。大学教授らは一斉にその女学生に向かって罵声を浴びせた。その女学生は自分の個性の羽を広げた途端に、奈落の底に突き落とされてしまったのだ。大学教授らが「大学はディズニーランドではない、馬鹿にするな!」と言い放ったかどうかまでははっきりと覚えていないけど、大学教授らによる罵声は大体そのような内容であったと記憶している。ちなみに、その女学生は幼少の頃から「少女マンガ」が大好きで、自分でもよく描いていた。雰囲気はファンシーでも、芯がしっかりしていた。そしてその芯を大学教授らがポキッと折ってしまったわけだが、その目的は甚だ不明である。

 では次は最近の話。最近といっても、昨年(二〇一二年)の話だが、二〇一五年に開業する北海道新幹線の『新函館駅』の駅舎デザインが決定した(図-1)。この駅舎の設計コンセプトは、「自然と共に呼吸(いき)する、モダンで温かみのある駅」とのこと。また、駅舎の前面はガラス張りで、「トラピスト修道院のポプラ並木をイメージしたデザイン」であるそうだ。これを僕が初見した時の感想は、「わけがわからないよ」「なに言ってんだこいつ」等々である。特にこの駅舎がモダン様式(モダニズム)を選択している目的が甚だ不明である。何の感慨もないデザインだ。その一方、これも昨年の話だが、『東京駅』の赤煉瓦造りの駅舎が、建築家の辰野金吾らが設計した約百年前のオリジナルの姿(一九一四年)の、英国風クラシック様式に復元されて再開業した。この復元された『東京駅』は、実に多くの人々に愛されている。昨年の一二月に予定されていた『東京駅』を舞台にしたプロジェクションマッピングのイベントが、激しい混雑のために中止に追い込まれたほどの人気ぶりである。さて、では前述の『新函館駅』も百年後には、今日の『東京駅』と同じように人々に愛されている駅舎になっている、とあなたはどれだけ想像できるだろうか。僕には無理だ。更に僕は二〇世紀のモダン様式(モダニズム)の建築よりも、それ以前の世紀のクラシック様式の建築のほうが、より多くの人々に愛されやすい傾向にあるのではないかと考えていて、もしそれが事実であるならば、これは建築史上の皮肉であるとしか言いようがない。二〇世紀のモダニストたちは建築様式を改悪したということになる。


図-1 『新函館駅

 以上、二つのプロローグを書いた。この二つの話(問題の提起)からこの先の本論は書かれている。さて、私たちはこれからどこを目指したら良いのだろうか、建築に対する人々の感情や感性は『新函館駅』と『東京駅』のどちらが望ましいと考えられ得るのだろうか。僕は確かに『新函館駅』よりも『東京駅』のクラシック様式のほうが建築のあり方としては望ましいと考えている。でも、この二者択一は極論であるし、この先の本論で「復古主義」を掲げて、前近代の様式をリヴァイヴァル(再生)すべきである、と書く気は全然ない。それよりも、モダニズムを「ハッキング」しようと思う。

 モダニズムの建築家のミース・ファン・デル・ローエは、「建築は空間に表現される時代の意志である。この単純な真理を明確に認識しない限り、新しい建築は気まぐれで不安定となり、当て所のない混沌から脱し得ない。建築の本質は決定的に重要な問題で、建築は全てそれが出現した時期と密接な関係があり、その時代環境の生活業務の中でのみ解明できることを理解しなければならず、例外の時代はなかった」と述べている。これはモダニズムを特徴づける大変有名な言葉である。よって、これを定言命法にすることで、言い換えると、モダニズムの信条を文字通りに読むことで、「復古主義」の沼を跳び越えて、やや無謀かも知れないが、現在という時代に適合する新しい建築論の構築を試みる。ただ字数に限りがあるために、どうしても駆け足になってしまうが、それはご容赦願いたい。さて、現在の「時代の意志」は何だろうか。おそらく、最も顕著であるのは「情報化時代」と呼ばれる、情報テクノロジーが生成した新しい環境世界である。『ニコニコ動画』はその代表例である。では早速、この「情報化時代」に適合する新しい建築をめざして、本論に入る。

■ アイコン

 二〇世紀を代表する小説家のジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』(一九一六年)には、主人公の青年(スティーヴン・ディーダラス)に「芸術論」を語らせるシーンがある。その箇所を引用すると、主人公の青年は友人に、「この詩は一人称ではじまって三人称で終わってるんだよ。劇的形式に到達するのは、それぞれの人物のまわりを流れ渦巻いていた生命力が、あらゆる人物に活気を与え、その結果、彼ないし彼女が固有の、そして触知しがたい、審美的生命を身につけるようになったときの話しだ。芸術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる」と語っている。その最後の「没個性的なもの」とは、前述のプロローグで書いた『新函館駅』のような建築のことではあるが、僕が改めて問いたいのは、最初の「叫びとか韻律とか気分」のほうである。なぜなら、この「叫びとか韻律とか気分」が私たちの出発点となるからである。

 では次は思想史、表象文化論を専門にする研究者の田中純の『建築のエロティシズム――世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(二〇一一年)から引用すると、筆者は、「現代は凡庸な計画論が建築を深く浸食している時代である。建築家が社会学者がよろしく家族の未来像を語り、それを愚直に住居空間に翻訳してくれる。家族の空洞化にしろ何にしろ、社会学者が唱えるイデオロギー的なラジカリズムに追随するそんな計画論に、建築固有の論理もエロティシズムもない」と述べている。筆者は現代の建築には「エロティシズム」がないと嘆いているのだが、この本での「エロティシズム」に関する記述は、主にモダン様式(モダニズム)の始祖の一人とされている建築家のアドルフ・ロースについてである。建築に「エロティシズム」が必要であるのかどうかの問いはともかくとして、モダン様式(モダニズム)の始祖の一人とされている建築家に「エロティシズム」があった、という筆者の指摘は大変重要である。なぜなら、新しい様式の始まり(出発点)には建築家のどのような情念や情動があったのかを、改めて教えてくれているからである。ちなみに、アドルフ・ロースが代表作の『ロースハウス』を建てたのは一九一一年である。それから約百年が経った今では洗練の極に達し、没個性的なものとなり、モダン様式(モダニズム)から「エロティシズム」はすっかり消尽してしまった。

 ところで、建築家のアドルフ・ロースは、若い頃にアメリカで開催された『シカゴ万国博覧会』(一八九三年)に訪れている。その時アドルフ・ロースモダニズムの建築家のルイス・サリヴァンに出会って深い感銘を受けている。前述のモダニズムの建築家のミース・ファン・デル・ローエの「時代の意志」の他に、モダニズムの建築家のルイス・サリヴァンの「形態は機能に従う」(Form follows function)も大変有名な言葉である。この言葉はモダン様式(モダニズム)の信条にもなっている。この言葉の初出は、ルイス・サリヴァンが書いた論文の『The Tall Office Building Artistically Considered』(一八九六年)である。この論文を読むと、この言葉は一九世紀後半に誕生した新しい建築物である「高層建築」の「芸術論」であることが分かる。一九世紀前半までは「高層建築」はまだ存在していなかったのだが、産業革命によって発展したテクノロジーによって、やがて「高層建築」が建てられるようになった。ところが「高層建築」は人類史上、前例のない巨大な建築物なので、その「芸術論」がどこにも存在していなかったのである。そうした状況と対峙したサリヴァンには二つの選択肢があったに違いない。一つは「高層建築」を否定することである。常軌を逸したスケールをもつ「高層建築」は人類が数千年かけて築いてきた建築の「芸術論」の枠に収まらないのであるから醜悪なのである、と切り捨てる論を構築することはできるだろう。それは例えば、今日の建築家の一握りが、日本の郊外に建つ大型ショッピングセンターを醜悪であるとみなす感情とかなり重なり合うのではないかと思われる。もう一つは――サリヴァンが選択した答えであるが――新しく出現した「高層建築」を受け入れて「芸術論」を作り変えるという全く正反対のやり方である。コペルニクス的転回である。大雑把に言えば、サリヴァンの「形態は機能に従う」(Form follows function)とは「高層建築を受け入れる」という意味と同義である。大体、モダン様式(モダニズム)とはこのようにして始まったのである。

 では、そのモダン様式(モダニズム)の始まり(出発点)を、パラレルに現在という時代に置き換えてみよう。現在は情報テクノロジーが発展した「情報化時代」である。約百年前のモダニスト産業革命によって発展したテクノロジーである「高層建築」を受け入れたように、現在の私たちは、まず「情報化時代」を受け入れる。そして建築家のサリヴァンが「高層建築」の「芸術論」を書いたように、私たちは「情報化時代」における建築の新しい「芸術論」を書かなければならないのである。その取っ掛かりとして、サリヴァンの言葉の「形態は機能に従う」(Form follows function)をハッキングして「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)という言葉を今ここに掲げる。一応、韻を踏んでいる。「アイコン」とは、「内容を図や絵に記号化して表現したもの」のことである。ちなみに、ワイアード誌の編集長のクリス・アンダーソンは『フリー――〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(二〇〇九年)で「アイコン」等の機能に関して、「一九七〇年代にゼロックス社のパロアルト研究所で働いていたアラン・ケイというエンジニアが(中略)ディスプレー上が魅力的になるように(中略)アイコンを描いたり、マウスでポインタを動かしたり、さらには、ただかっこよく見えるという理由で、機能のないアニメーションを加えたりした」「浪費をして、見て楽しいものをつくる目的はなんだろう。それは子どもを含む一般の人にコンピューターを使いやすくすることだ。ケイのGUI(操作の対象が絵で表現されるグラフィカル・ユーザー・インターフェース)の仕事は、ゼロックス社のアルトやのちのアップル社のマッキントッシュにインスピレーションを与え、一般の人にコンピュータを開放することで世界を変えたのである。技術者の仕事はどんなテクノロジーがためになるかを決めることではない、とケイにはわかっていた」と述べている。これは「アイコン」等が私たち社会にとっていかに有用であるかを示している。ともあれ、詳しいことは後述するが、先に「情報化時代」に関する建築家の磯崎新の論文を引用する。

 磯崎新は『新建築』(二〇〇九年三月号)誌に掲載された『〈建築〉/建築(物)/アーキテクチャー』の論文で、「アイコン」は「最初は画面上の印だった。それが今ではメディア内で流れる情報を仕分けし、差異化するイメージを代理し始めている」と述べている。更に、「バーチャルなメディアの世界では、伝達に独特の型が要請される。時には言葉であり、時には兆候(サイン)となる」「IT革命のあげく、ウェブ・インフラがグローバルに整備され、その中では唯一実在すると考えられた身体が投入されている世界とは異なる法則が働き始めた。疑われなかった空間・時間でさえ圧縮されて、順序と距離に置換されている」「このバーチャルな場は、ひとつの発明品であり、操作可能に設計され、あげくに勝手に増殖している」等々と述べている。これらは『ニコニコ動画』について書いていると言っても過言ではない。この論文は「情報化時代」における空間観が、前世紀のモダニズムのそれとは全く異なるということを極めて的確に表現している。

■ 建築

「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)と前節で書いた。これは本論のタイトルでもある。では、もう少し詳しく書く。ゲームクリエイターのZUNは『PLANETS vol.7』(二〇一〇年)の対談で、「こういうキャラクターだからこういうシステム(中略)という方が俄然面白い」「遊ぶ側だけではなくて、キャラクターを付けることは作る側にも優しいんですよ。何もないところから新しいシステムを考えようと思っても、機械的なシステムしか出てこない。でもキャラクターがあると『このキャラクターだったらこうするんじゃない?』となって、アイデアが出しやすくなる」等々と語っている。興味深い。特に「キャラクターを付けることは作る側にも優しいんですよ」と語っているところが興味深い。「キャラクター」と「アイコン」はほぼ同義であるので書き換えると、「アイコン」から建築形態を考えるプロセスは、「作る側」である建築家や建築学生にとっても「優しいんですよ」ということになる。もっと言えば、僕が掲げた「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)の言葉の最大の効力はこの「優しいんですよ」にあると言っても過言ではない。また前節ではジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』から引用して、「叫びとか韻律とか気分」こそが私たちの出発点であると書いたが、「叫び」や「気分」などからそのまま建築を起こすのは正直きつい。というか、それはほとんど不可能である。しかし、「アイコン」から建築形態を考えるプロセスを用いることで一気に優しくなる。今日の建築では相変わらず「きつさ」が奨励されているが、それはもはや時代遅れの観念である。これからの建築に必要なのは「優しさ」なのである。

 また、都市経済学者のリチャード・フロリダは『クリエイティブ資本論――新たな経済階級の台頭』(二〇〇八年)で、「私たち人間は、神ではない。私たちは無から何かをつくり出すことはできない。私たちにとってのクリエイティビティとは、合成の営みであり、創造したり合成したりするためには刺激が必要なのである。その刺激によって、既存の枠組みを解体し、乗り越えながら、一つひとつばらばらなものをいままでにない新しいやり方へとまとめ上げるのだ。アインシュタインも『組み合わせ遊び』と呼んだように、選択の幅を最大化したい、新しいものを常に探し求めていたいという欲求は、奇妙な組み合わせを思いつく可能性を高めるがゆえに、クリエイティブな考え方に本来的に備わっているものだと私は感じている」と述べている。これも興味深い。特に「クリエイティビティとは、合成の営み」と述べているところが興味深い。でも、「組み合わせ遊び」は、例えば『ニコニコ動画』では既に毎日のように繰り広げられている。ある一つの作品から「2次創作」が生まれて、更には「n次創作」へ至るなどのプロセスが繰り返されている。「組み合わせ遊び」はクリエイターにとっては本質的に楽しい行為なのだろう。また、「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)と前節で書いたが、この「組み合わせ遊び」を行うために建築に使用する「アイコン」は一つではなくて、複数であるほうが良いということを示している。また、この「組み合わせ遊び」は、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(一九六二年)の「ブリコラージュ」(器用仕事)を連想させる。ウィキペディアの「ブリコラージュ」の項から簡単に引用すると、レヴィ=ストロースは、「著書 『野生の思考』(一九六二年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、『ブリコラージュ』と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、『野生の思考』をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、『栽培された思考』と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた」とのことである。今日のポストモダン社会で求められるのは、近代の「栽培された思考」ではなく「野生の思考」のほうである。更に、最近の記号論の知見によると、人間は記号(アイコンを含む)を操る生き物であり、人間が扱う記号システムは人間の認知や他の能力などに支えられてボトムアップ創発したシステムと見なすことが出来る、とされている。

 それから、評論家の大塚英志は『キャラクター小説の作り方』(二〇〇三年)で、キャラクター小説に関して、「仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描き得る『現実』がある」と述べている。このことは建築デザインにおいても「アイコン」を用いることでしか感性的に表現できない「現実」がある可能性を示している。建築に「アイコン」を用いることで、建築の可能性が一気に広がるのである。いずれにせよ、サブカルチャーと呼ばれている分野での見解の多くは、「アイコン」に従って建築形態を考えることを提案している本論とかなり相性が良い。本論によってサブカルチャーと建築の距離が縮まる可能性も考えられる。また、評論家の宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』(二〇〇一年)で、「現代におけるコミュニケーションそれ自体が、(自己の)キャラクター化を通じた現実の多重化=<拡張現実>を孕んだものに他ならない」「キャラクターへの愛=虚構への欲望と、キャラクターへの愛を共有することで成立する現実のコミュニケーションへの欲望は密接に結びつき、ほとんど不可分になっている」等々と述べている。繰り返しになるけど、これらの「キャラクター」を建築の「アイコン」に置き換えても何ら差支えない。このことは、哲学者のジャック・デリダの「脱構築」という思想(エクリチュールの先行性)を連想させる。また、詩人、作家、劇作家のオスカー・ワイルドは「現実が人生を模倣するよりもはるかに多く人生は芸術を模倣する」と述べている。いずれにせよ、サブカルチャーと呼ばれている分野では、既に情報テクノロジーが生成した新しい環境世界と不可分の関係になっている。情報化時代に適合する新しい建築の可能性のヒントがここにあるのだ。

■ 都市

 視点をズームアウトしてみよう。都市計画家のケヴィン・リンチは「分かりやすさ」(Legibility)という概念を提唱している。ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』(一九六〇年)で、「鮮明なイメージは、人間の行動をなめらかにし、すみやかにするにちがいない」と述べている。それに対して同書で「分かりにくい都市」として挙げられているのが、ニュージャージー州東部に位置するジャージー・シティである。日本で言えば「ファスト風土」みたいな都市だろうか。同書から少し引用すると、ジャージー・シティでは「それ自身の中心的活動はほとんど見当たらない」「人間が住むための場所というよりはむしろ通過するための場所であるかのような印象を与える」「個々のスケッチや面接調査を検討したところ、この都市について包括的な概念といったようなものを持ち合わせている者は、長年ここに住む被面接者の中にもひとりもいないことがわかった。彼らが描く地図は断片的で、空白の部分が大きく、自分の家のまわりのせまい部分に集中しているのが多かった」「かれらが抱いているイメージが、知覚によって得られた具体的なものではなく、概念的なものだったことである。とくに印象的だったのは、視覚的なイメージによらずに、通りの名まえや用途の種類によって説明する傾向が強かったことである」等々と述べている。要するに、都市に「視覚的なイメージ」がないと、行動範囲が「自分の家のまわりのせまい部分に集中」するなど極めて断片的なものになってしまうということである。よって、都市に「アイコン」となるような建築があると、「人間の行動をなめらかに」するだろう。そのヒントは前述のアラン・ケイGUI(ディスプレー上に操作対象が「アイコン」等の絵で表現される)の話にある。ちなみに、都市計画家、建築家の曽根幸一は『都市デザインノオト』(二〇〇五年)で、ケヴィン・リンチの「都市観のもっとも卓抜した点は、(中略)それまで都市や環境が、機能とか構造といった抽象的な言葉でしかとらえられていなかったのを、眼にみえるものの操作という即物的でかつ感覚的な次元に引き戻した」ことであると述べている。この「感覚的な次元」について、別の研究から少し引用しておこう。

 認知科学実験心理学を専門にする研究者のコリン・エラードは『イマココ――渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』(二〇一〇年)で、「人間は空間を飛躍して、自分のニーズに合わせて頭の中で空間をつくり直してしまう」「私たちは頭の中で、距離と方向はあきれるほど無視する一方、位相的な関係についてははっきり示そうとする。(中略)伸びるゴムのシートの上に描かれた位相地図は、ゆがんではいても、空間の関係についてはいくつもの情報を伝えている」「私たちの頭の中にある地図は、物理や数学で説明できるものとはまったくことなっているが、ある意味、生きのびるために空間を支配したいという私たちの欲求と、記憶の限界をすり合わせたものだ」「頭の中で空間を思い描き、様式化し、変容させることができる能力を持つ人間は、他の動物にはできない方法で自らを解き放ったのだ」と述べている。ここからまず分かることは、二〇世紀のモダニズムの空間観は、私たちの頭の中にある地図や空間認知の方法とは全く異なるということである。物理的な空間と人間(脳)が再構成する空間は異なるのである。その再構成された空間は、むしろ前節で書いた「情報化時代」の空間観に近いのではないだろうか。都市に「アイコン」となるような建築があると、空間の記憶は容易になるだろう。更に、そのような建築はリアルな都市の位相地図を変容させる力を持つことになるだろう。また、本論からやや外れるがブレーズ・パスカルは「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」と述べている。解明されるべきは、私たちの感覚や心情が持つ仕組みである。やがてリアルな都市とバーチャルな場という対立は崩れて行くに違いない。

■ 価値

 次に建築の芸術としての「価値」について考えてみる。政治哲学者のマイケル・サンデルはテレビ番組の『ハーバード白熱教室』(二〇一〇年)で、シェイクスピアの『ハムレット』とアニメの『シンプソンズ』のどちらに価値があるかの問題を提起している。ほとんどの人はシェイクスピアに価値があってアニメにはないと答えるだろうが、それならばシェイクスピアの価値は一体どこにあると考えられるのだろうか。哲学者のイマヌエル・カントは『判断力批判』(一七九〇年)で、「美学的判断というのは、判断の規定根拠が主観的でしかあり得ない」と述べる一方で、「美は、概念にかかわりなく、普遍的に快いものである」と述べている。つまり、美学的判断は主観的でしかあり得ないが、それは普遍的であると述べている。これは矛盾しているようにも見えるが、ここでは作品の判定と主観の間に「一切の利害関心がない」ことが前提になっている。利害関係がなければ作品の判定は純粋に「満足あるいは不満足」で判定されるというわけである。そう考えると、シェイクスピアに価値があるとされるのは、約四百年も昔からずっと上演され続けているからだろう。四百年という時の経過は人々の利害関係を既に消尽させているに違いない。よって、建築の芸術としての「価値」は歴史に委ねられることになる。しかし、今を生きる私たちにとって、そのような歴史的視点がどれだけの意味を持つのだろうか。冒頭のプロローグで書いた「復古主義」を肯定することにもなりかねない。私たちが正面から向き合わなければならない問題は「美学的判断は主観的でしかあり得ない」ということである。評論家の宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』(二〇一一年)で、もはや「大きな物語」はない、ビッグ・ブラザーはいない、個人は「小さな父」(リトル・ピープル)になるしかないと論じている。この論は現在のリアルを極めて的確に捉えている。「情報化時代」における建築の新しい「芸術論」は、「美学的判断は主観的でしかあり得ない」ことを前提に構築しなければならないのである。だが、主観を出発点にするのは正直きつい。個人への負荷が重すぎる。しかし、ここでも「アイコン」が有用となる。前節でゲームクリエイターのZUNの話からヒントを得たように、建築に「アイコン」を用いることで一気に優しくなるからである。繰り返すが、これからの建築に必要なのは「優しさ」なのである。ある意味、芸術論のコペルニクス的転回である。

■ アイコン建築

「情報化時代」は「時代の意志」である。「情報化時代」では誰もが「小さな父」(リトル・ピープル)で、誰もが「美学的判断は主観的でしかあり得ない」のだが、その一方で、「情報化時代」では多様なコミュニケーションの形態が生成している。その生成の媒体(運び屋)となっているのが、アイコン、キャラクター、2次創作、等々である。『ニコニコ動画』はその代表例である。さて、「現在という時代に適合する新しい建築論の構築を試みる」と冒頭のプロローグに書いたのだが、その大半は既に説明し終えたので、最後に簡単にまとめておこう。まず【第一】に「美学的判断は主観的でしかあり得ない」ことを受け入れる。しかし、それだけでは個人への負荷が重すぎるので、【第二】にこれを「優しく」する方法を考えることになる。その方法については前節で「キャラクターを付けることは作る側にも優しいんですよ」「僕が掲げた『形態はアイコンに従う』(Form follows icon)の言葉の最大の効力はこの『優しいんですよ』にあると言っても過言ではない」と書いている。また、都市に「アイコン」となるような建築があると、「人間の行動をなめらかに」すること等々についても言及した。そして【第三】以降は方法の体系が組み立てられていくことになる。例えば僕は前節で「『組み合わせ遊び』を行うために建築に使用する『アイコン』は一つではなくて、複数であるほうが良い」と書いている。では、【第四】について書く。

 経済学者、数学エッセイストの小島寛之は『数学的思考の技術―不確実な世界を見通すヒント』(二〇一一年)で、村上春樹の小説は、「論理文の厳密性を巧みに利用して、読者に特殊な感覚を想起させる」「村上の論理文の多用は、『確信犯』だといっていい」「村上春樹の小説は、外国でも非常によく読まれている」「村上の小説では、論理文によって作家の推理、思考のプロセスが記述されているから、その世界観がどの国の人にでもそれなりに正確に伝わるのだろう」「哲学者ヴィトゲンシュタインが、『記号論理こそ人間の認識にとって最も普遍的なもの、いわば人間の生そのもの』と見なしたのは、まさにそういうことだったんだと思う」「村上春樹の小説は、論理文を利用して、一方では、文体に特殊なフレーバーを加えた」「作家が世界をどう見つめ、どう認識し、どう理解しているか、まさにそのことを、国境を越えて読者に、普遍的に、的確に、伝え得ている」と述べている。論理文、記号論理が文学作品にも有効であることが論じられている。

 更に、モダニズムの建築家のミース・ファン・デル・ローエは、「二個の煉瓦を注意深く置くときに、建築が始まる。建築とは、厳密な文法をもつ言語であり、言語は、日常目的に散文として使える。また言語に堪能な人は、詩人になれる」と述べている。一応、この文にある「煉瓦」を「アイコン」に置き換えれば、モダニズムを「ハッキング」することができる。モダニズムを「ハッキング」するのは、論理文がモダニズムと同じであるということである。また、ミースが「言語に堪能な人は、詩人になれる」と述べているところが興味深い。本論で書いた「情報化時代」における建築の新しい「芸術論」においても、アイコンの扱いに堪能な人は、詩的な建築を目指すことになるだろう。更に、「建築とは、厳密な文法をもつ言語」と述べているところも興味深い。

 この「文法」については「百聞は一見にしかず」なので、見本例を使って説明する。僕が描いた建築ドローイングの「バレンタインの家」です(図-2)。この案では「小屋型」と「ハート型」の二つのアイコンを組み合わせています。「文法」は矢印で図示しています。この案が詩的であるかどうかは分からないけど、僕の主観ではとても気に入っています。あと、僕のブログ「未発育都市」には、その他に「木の家」「飛行機の家」「スケッチブックの家」「星の家」「日傘の家」「絵本の家」「流れ星の家」「土星の家」「木々の家」「リボンの家」「リボンの集合住宅」等々を描いて載せているので、興味がある方は是非。ところで、この「バレンタインの家」を大学の建築学科の設計製図の演習課題で提出したら、一体どうなるのだろうか。あの女学生(乙女チック)のような目に遭うのだろうか? (終わり)


図-2 『バレンタインの家』

2013年3月19日

以上です。

ご意見・ご感想等がありましたら、僕のツイッター@mihatsuikutoshi)等に知らせて下さい。




同人雑誌『ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学』の表紙・背表紙、P48-49、P50-51