新国立競技場は建築設計コンペで最優秀賞に決定したザハ・ハディド案で建てなければならない――建築家の槇文彦氏を批判する

2020年に東京で開催されるオリンピックとパラリンピックのメインスタジアムとなる「新国立競技場」のデザインが物議を醸している。その発端は、建築家の槇文彦氏が日本建築家協会の機関誌「JIA MAGAZINE」の2013年8月号に寄稿した「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」の論考である。槇文彦氏はこの論考で「新国立競技場」は「巨大すぎる」と批判している。その翌々月の2013年10月にこの論考を新聞メディアが相次いで報道し、この問題が多くの人々に知られることとなった。

さて、「新国立競技場」のデザインは上記の論考のちょうど1年前の2012年に行われた建築設計コンペの「新国立競技場 国際デザイン・コンクール」で決定した。2012年10月30日に二次審査対象作品11点が公表され、翌月の2012年11月16日にその中から最優秀賞が決定した。最優秀賞を射止めたのは、ロンドンを拠点に活躍する建築家のザハ・ハディドである。この時のネットでの反応を僕はログってあるのだが、ま、この時から「宇宙船」だの「カブトガニ」だのと揶揄られていたのではあるが、概ね好評であった。二次審査対象作品11点が公表された時点で最も人気が高かったのもザハ・ハディド案であった。ザハ・ハディドは勝つべくして勝った、というのが当時の僕の印象である。

しかし、一つだけ例外があった。この審査結果に対して、日本の建築家たちは頭を抱え込んでしまったのだ。これは「最悪の結果である」と。日本の建築家たちのこのような反応に当時の僕は、一般人の反応と建築家たちの反応がこれほどまでに食い違うケースは珍しいと傍観していたのだが、振り返ってみれば、この時点で日本の建築家たちはザハ・ハディド案が「巨大すぎる」とは誰も批判していなかった。これは明記しておかなかければならない。日本の建築家たちはあくまでもザハ・ハディド案のデザインが気に入らなかったのである。些細なことに思われるかも知れないが、実はこれこそが「新国立競技場」問題の本質なのである。

だが、その本質が直接、語られることはない。建築家の槇文彦氏をはじめ「新国立競技場」のザハ・ハディド案に反対する日本の建築家たちが主に問題視しているのは(1)建物が「巨大すぎる」こと、(2)予算をオーバーしていること、(3)技術的な問題などの回りくどい理由である。もちろん、これらはとても大事なことではあるのだが、一方では、日本の建築家たちは建築の本質をストレートに語り得る言葉をもはや持っていないということを露呈させてしまっている。

「新国立競技場」の建築設計コンペの審査員の一人であった建築家の内藤廣氏は2013年12月9日付の「建築家諸氏へ」(PDF)と題した文章で、「ザハの案が、建築的な議論として深まっていかないことも不満です。あれほど個性的な案が選ばれたのですから、本来なら、建築とは何か、建築表現とは何か、建築には何が可能なのか、というより根源的な議論が巻き起こってしかるべきなのに、語られているのは「分かりやすい正義」ばかりです」と現状を嘆いている。日本の建築家たちが「分かりやすい正義」によって「新国立競技場」のザハ・ハディド案を引きずり下ろそうとしていては、日本の建築家たちはやがて自滅するだろう。

(もちろん、建築家たちが感知しているような本質、または建築家たちにしか感知できないような本質は幻想である、建築にそのようなものは存在しない、建築は芸術なんかではないと主張することもできるだろう。美術雑誌の『ユリイカ』に連載中の建築評論家の飯島洋一氏の「「らしい」建築批判」ではそのように論じられていて、「新国立競技場」のザハ・ハディド案をはじめ、建築家の伊東豊雄氏が設計した「せんだいメディアテーク」や建築家ユニットのSANAAが設計した一連の建築作品などを酷評している。)

さて、上記の(1)〜(3)について一通り言及しておこう。(1)建物が「巨大すぎる」ことについては、まず「新国立競技場」の建築設計コンペ時のザハ・ハディド案は、敷地をはみ出して鉄道や高速道路をまたいでいることが批判されたが、これは後の縮小案で既に解決済である。ちなみに、建築家が建築設計コンペで敷地をはみ出した案を提出するというのは割と日常茶飯事である。そのような提案は建築界の慣習として認められている。例えば、1986年に行われた「東京都庁舎」の建築設計コンペ(最優秀賞に選ばれたのは建築家の丹下健三氏で、現在のツインタワーのあれのこと)での建築家の磯崎新氏の案は、中央の道路をぶっ潰している(平松剛著『磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ』を参照)。よって、ザハ・ハディド案は敷地をはみ出しているからけしからん! と批判する人は建築界の慣習を知らないだけなのだ。

また、(1)建物が「巨大すぎる」ことについては、建物の高さも問題視された。「神宮の森」の景観が破壊されるという批判である。だが、これも2014年5月28日に承認された基本設計案で既に解決済である。この基本設計案では建物の高さは75メートルから70メートルに変更された。下図は「新国立競技場」の公式サイトの第5回の資料1の3をまとめたものだが、これの「現状」と「計画案」を見比べると、「神宮の森」からの景観はもはや全く問題がなくなったことがはっきりと分かる。

というわけで、「神宮の森」の景観は守られた、これにて一件落着だと言いたいところなのだが、建築家の槇文彦氏はこれでは引き下がらなかった。2014年6月15日に都内で開かれたシンポジウム「神宮の森から新国立競技場を考える」で槇文彦氏は今度は建物を地上から見ると「巨大な壁」になると批判した。だが、この問題もいずれ解決されるだろう。だが、解決されるや否や、槇文彦氏はまた別の理由をつくると僕は予想する。おそらく、終わりなき「イタチごっこ」になるだろう。また、槇文彦氏は同シンポジウムで「新国立競技場」はまるで巨大な「土木構築物」だと批判したが、この発言はさすがに土木関係者に失礼であると言わざるを得ない。

ところで、「イタチごっこ」になると書いたが、補足しておくと、なぜそうなるのかと言えば、上記に書いたように「新国立競技場」問題の本質は日本の建築家たちがザハ・ハディド案のデザインを気に入っていないということだからである。そして、そのことを日本の建築家たちは直接は語らずに、理由をその都度、後付けするからである。そして、後付けされるのは「分かりやすい正義」の言葉である。ここに奇妙なねじれが生じている。なぜなら、日本の建築家たちが発した「分かりやすい正義」の言葉が一般人を扇動するからである。繰り返すが、「新国立競技場」が物議を醸していることの発端は、冒頭に書いた槇文彦氏が日本建築家協会の機関誌に寄稿した論考である。そして、日本の建築家たちに扇動させられているのは主に左翼(リベラル)系の人々である。余談ではあるが、ツイッターを観察していると、大体、「新国立競技場」のザハ・ハディド案に反対している人々は同時に「反原発」「反自民」「反安倍」である。

また一方で、左翼系の人々は「反国家」「反体制」などのスローガンを骨の髄まで愛している。そして、言うまでもなく「新国立競技場」は「国立」だ。つまり、左翼系の人々が最も好んで敵対した相手なのである。実際、今月の6月11日に開業した巨大建築物である「虎ノ門ヒルズ」に対して左翼系の人々が完全にスルー(黙殺)しているのは、これが「国立」ではないからだ。更に、由緒ある建築物である「ホテルオークラ東京」や「九段会館」の取り壊しが既に決まっているのだが、これらも完全にスルーされている。現代の左翼はもはや「資本主義」とは戦わない(五十嵐敬喜氏を除いて)。以上をまとめると、日本の建築家たちは「新国立競技場」問題の本質を語っていないし、日本の建築家たちに扇動された左翼系の人々は「新国立競技場」問題の本質を知らない。また一方で、左翼系の人々は「反国家」「反体制」というお気に入りの対立図式にすっぽーんと入り込み、そこに日本の建築家たちが次々と「分かりやすい正義」という燃料を供給しているのである。両者の関係はこのようにねじれているのである。(もちろん、「新国立競技場」のザハ・ハディド案に反対している人の全てが、このねじれの中にいるということでは決してない。また反対に、国立の競技場を何で外国人が設計するんだ? といった愛国ネトウヨなツイートも散見する。)

やや話が変な方向に脱線したが、そのついでに今回のような景観問題について少し補足しておくと、そもそも景観というのは人それぞれの「感じ方」の問題であるから、正しい答えがあるわけではない。僕は「新国立競技場」のザハ・ハディド案を支持しているが、もし立地が明治神宮の「外苑」ではなく「内苑」だったら僕は大反対していただろう。景観は論理で割り切れる問題ではないのである。先月の5月30日にJSC(日本スポーツ振興センター)が公表した「新国立競技場 国際デザイン・コンクール報告書」には建築設計コンペの審査過程での激論が明らかにされているのだが、そこには「明治神宮の歴史を見ると、内苑は伝統様式でつくる。一方、外苑はヨーロッパ的な、外から来たものを積極的に取り入れている。ある種の異物、近未来的なものがあってもおかしくないという観点で評価した」と記されている。これは極めて妥当な判断であると言えるだろう。実際、明治神宮の外苑に建つ「聖徳記念絵画館」は洋風の建築である。

また、都市部における公園(緑地)のあり方の答えは一つではない。例えば、東京ミッドタウンに隣接する「檜町公園」(下図)は今日でも人気スポットとして人々に大変に親しまれている。巨大建築物と公園(緑地)は共存可能なのである。更に、マンハッタンの「セントラル・パーク」は四方を高層ビル群に囲まれているのだが、その強烈なコントラストがこの場所の魅力の一つになっている。公園(緑地)の景観を現状維持することだけが唯一解ではない。時代と共に変えるところは変えて行くべきである。明治神宮の外苑のイチョウ並木は大変に美しいと思うけど、「聖徳記念絵画館」の周りは駐車場(アスファルト)で固められている。こんなので本当に景観を大事にしていると言えるのかと疑いたくなるような惨状で、はっきり言って、ボロい。これを現状維持するのは馬鹿げている。

それともう一つ。これは本当はこの記事の最後に書く予定だったのだが、今書いておこう。建築家の槇文彦氏の発言は極めて重い、ということである。これは決定的に重要なことである。槇文彦氏は世界最高峰の建築家の一人なのである。1993年には「建築界のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞を受賞されている。そのような世界最高峰の建築家が景観について語った場合、そこには凡人には想像し得ないような格段な何かがあると考えるのが最も正しい姿勢である。だが、そのことが別の問題を引き起こしてしまうとしたら、どうだろうか。ま、これは予定通りにこの記事の最後に書こう。

では、次に(2)予算をオーバーしていることについてだが、日本の建築家たちがこれを理由に批判するのはあまりにも唐突である。なぜなら、建築家が予算をオーバーするのは割と日常茶飯事だからである。例えば、2002年に竣工した「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」は予算を大幅にオーバーして訴訟にまで発展したのだが、それを理由に日本の建築家たちがこの建物を批判したことは僕の知る限りでは一度もない。それどころか、この建物は日本の建築家たちの間では極めて評価が高い。同様に、建築家の丹下健三が設計した「国立代々木競技場」(1964年の東京オリンピックの時に建設された)も日本の建築家たちの間では極めて評価の高いのだが、これも予算オーバーだった。丹下健三氏は当時大蔵大臣だった田中角栄のところに直談判に行き、追加の予算をもらってきたそうだ。

もちろん、日本の建築家たちのこうしたお金に対して無頓着な姿勢が建築家の信用を著しく損ねているのは事実である。また、僕個人的には(お金にうるさいので)平気で予算をオーバーする建築家たちは許せないという思いが強い。でも一方で、現代美術家村上隆氏は2014年6月12日付のフェイスブックに「超高額な建築費、上等じゃんか!やったる!ってならない風潮が、俺は嫌だね!本質的な国際的な、勝負を放棄して何を売り込むって言うんだよ!」「安くしたらそれがいいのかよ?」「やれ節約だ、金抑えれるだとか、ものづくりの本質論とは別次元でチヤホヤ担ぐリベラル風情のいい気な感じ、超アホだな!」「未来を創る芸術には才能と狂気と金が必要なんだ!」等々とアツく語っている・・・こういう考え方もあるのかも知れない。

ついでに、脳科学者の茂木健一郎氏は「国立競技場は、どうあるべきか」から始まる2014年5月30日付のフェイスブックに前述の村上隆氏とはちょうど正反対のことを書いている。少し引用すると、「近代における建築とは、建築家の作家性、いわば「エゴ」の表現でもあった。いかに独創的で、斬新な意匠を生み出すか。建築家は芸術家であり、革新者でもある。しかし、日本の建築が評価されているのは、そのような文脈においてではない。そこが、日本の建築は新しいのだ」とのことである。エゴを消せ、自己を消せ、独創性を出すな、目立つな、多様性をなくせ、社会の空気と同化せよ、というのはいかにも日本人らしい発想であるし、現代の日本の若い世代もこの傾向により一層、向かっていると言われている。だが、僕個人的にはそれはとても窮屈な社会ではないかと思うし、幸いにして建築家のエゴと都市は共存可能なのである。

一例を挙げよう。2010年にシンガポールに「マリーナベイ・サンズ」というホテルが開業した。下の写真がそれなのだが、見て瞬時に分かるように、高層ビルの屋上に巨大な船が乗っているという極めて独創的なデザインの建築である。知っている方も多いだろう。日本人観光客もここにわんさか訪れている。今や「マリーナベイ・サンズ」はシンガポールの新しいアイコン(ランドマーク)となっている。だが、この建築を設計した建築家を一体どれだけの人が知っているのだろうか。建築家は確かに独創的なデザインの建築を設計することで自らのエゴを満たしたと言えるが、同時に、これはシンガポールの建築なのである。つまり、建築家のエゴと都市が共存しているのである。このような独創的なデザインの建築を東京にもたくさん建てるべきである。「新国立競技場」のザハ・ハディド案はその先駆けとなるだろう。

では、最後の(3)技術的な問題について。確かに「新国立競技場」のザハ・ハディド案は技術的な問題が山積している。現在の段階でも解決されてない問題は無数にあるだろう。だが、そのこととザハ・ハディド案を廃案にせよと主張することは直結しない。例えば、1973年に完成したシドニーの「オペラハウス」は建築設計コンペで建築家のヨーン・ウツソン案に決定したのだが、ヨーン・ウツソンがコンペ時に提出したのは図面ではなくアイデアを書き留めたドローイング程度のものだった。その後、大幅な変更をして現在のデザインに至ったという経緯がある。そして、今日では「オペラハウス」はシドニーを代表するアイコン(ランドマーク)となっている(下図)。もちろん、これはやや極端な例ではあるのだが、それでも僕は建築設計コンペとは基本的にはそういうプロセスを経るものだと考える。

その理由は大きく2つある。1つは前述のシドニーの「オペラハウス」のような大胆な案を募るためである。もう1つは建築設計コンペで技術的な問題の隅々までクリアしたような極めて完成度の高い案を求めるようになってしまうと、建築設計コンペに参加するコストが一気に増大してしまうからである。そうなると、どうなるだろうか。建築設計コンペに参加できるのは、豊富な資金を有する大手ゼネコンか大手設計事務所かスター建築家(Starchitect)だけになってしまうのである。要するに、「富める者はますます富み、貧者はますます貧しくなる」と新約聖書のマタイ福音書に書かれている格差社会化云々のあれと同じである。建築設計コンペで勝つのは、私腹を肥やした老害建築家ばかりになって、資金をほとんど持っていないような若い世代の建築家たちが建築設計コンペに勝って設計する仕事を獲るチャンスから遠ざけられてしまうのである。この状況を僕は全く望ましいとは思わない。よって、建築設計コンペでは技術的な完成度を求めすぎてはならないのである。

以上、(1)〜(3)について一通り言及した。(2)について僕は明確な態度を示していなかったが、現代美術家村上隆氏の考え方で良いと思う。ま、細かい話を抜きにすれば、これから東京はどこへ向かうのかということである。未来志向か、それとも現状維持志向か。僕はもちろん前者を支持している。そして、未来志向であるということは失敗に対して寛容になるということと同義である。なぜなら、私たちは未来を正確の予見できるほど万能ではないからである。未来はトライアル・アンド・エラー(試行錯誤)によってのみ造られる。実際に建ててみて失敗だった例では、パリの「モンパルナス・タワー」やセントルイスの「プルーイット・アイゴー」が挙げられる。また、建築設計コンペ時は賛否両論だったが、現代では成功だったと言われている例では、パリの「エッフェル塔」(下図)や「ポンピドゥー・センター」が挙げられる。

現在、「新国立競技場」のデザインが物議を醸しているわけだが、仮にこの世の中に完璧なものなど存在しないとしたら、賛成するよりも反対するほうが楽である。賛成しようと思ったら、そこに必然的に存在する欠点に対して寛容になる姿勢が求められるのに対して、反対するほうはひたすら不寛容な姿勢を貫けばいいからである。もちろん、そのどちらが人として道徳的に優れているかは言うまでもないけどな。未来は分からない、でも、僕らは新しい可能性に賭けるべきである。

では、最後のもう一つだけ。今回の記事のタイトルに入れた、「新国立競技場」は建築設計コンペで最優秀賞に決定したザハ・ハディド案で建てなければならない理由についてである。

先ほど、僕は景観問題について「そもそも景観というのは人それぞれの「感じ方」の問題であるから、正しい答えがあるわけではない」「景観は論理で割り切れる問題ではないのである」と書いたのだが、それと相似して、建築設計コンペでどの案をどのようにして決定したら良いのかも論理で割り切れる問題ではない。だからこそ、案の審査プロセスを精査することが重要になる。求められるのは、正当な審査プロセスである。とは言え、完璧なものは存在しないだろう。でも、それは民主主義でも同じことである。イギリスのチャーチル元首相は「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだが」と述べている。

また一方で、建築設計コンペという方法には長い歴史がある。建築設計コンペでの審査プロセスにおけるノウハウは既にかなり蓄積されているので、完璧ではないにせよ、僕はそれほど悪くない方法だと考えている。建築設計コンペでの審査プロセスは時代を重ねることで少しずつ改良していくしかない性質のものなのだ。そして、「新国立競技場」のザハ・ハディド案は、完璧ではないにせよ、そのような正当な審査プロセスを経て選ばれたのであるということはきちんと留意しなければならない。建築設計コンペにおける正当な審査プロセスを決して軽んじてはならない。今回の「新国立競技場」の建築設計コンペでザハ・ハディド案が選ばれたことに異議を申し立てるならば、審査プロセスのどこに問題があったのかを明らかにし、次へとつなげて行くことを目指すべきである。今回の建築設計コンペの審査プロセスよりも次回のほうが良くなっているだろうという幻想を捨ててはならない。

結局、現在、「新国立競技場」のザハ・ハディド案に反対している人々がやっていることは、声を大にして大騒ぎすれば、正当な審査プロセスを経て選ばれた案でさえもぶっ潰せる!ということを実証しようとしているだけである。それは前述の「今回の建築設計コンペの審査プロセスよりも次回のほうが良くなっているだろうという幻想」を粉々に破壊するヴァンダリズムである。もちろん、「新国立競技場」のザハ・ハディド案が気に入らなければ、どんどん批判すればいい。批判はどんな場合であれ有用だ。だが、だからと言って、建築設計コンペの無効化まで要求するのは間違っている。誰が何の権力でそれを要求することができるのかをよく考えるべきである。

繰り返すが、「新国立競技場」のザハ・ハディド案は正当な審査プロセスを経て選ばれたのである。この正当な審査プロセスを最重要視しなければならない。日本の重鎮の建築家が反対したら建築設計コンペを無効にできるなんて前例をつくっては駄目である。そんなことをしたら、やがてろくでもない権威主義が横行するようになる。建築家の槇文彦氏はいいかげんに自重すべきである。なぜなら、上記で書いたように、世界最高峰の建築家の槇文彦氏の発言は極めて重いからである。悪しき前例をつくってはならない。未来に大きな禍根を残すことになるだろう。(終わり)