秋田市の古地図を集めてみた

 
明けましておめでとうございます。今年も宜しく願います。さて、年末に僕の「画像フォルダ」を整理していたら、秋田市の古地図が見つかった。昨年、本ブログの「戦いは終わらない――「中心市街地」対「大型ショッピングセンター」」(10月3日)の記事や「【車載動画】秋田市の中心市街地」(10月7日)の記事や「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」(10月22日)の記事を書いた頃に集めたのだと思います(たぶん)。ちなみに、僕の「画像フォルダ」はかなり膨れ上がっていて、男の収集癖(収集本能か?)はすごいなぁ、とつくづく思いました(汗)。という、どうでもいい話はおいといてw、では、早速、載せます。(年代順です。)

■ 「出羽国秋田郡久保田城画図」 正保元年(1644年)

上図に入れた白文字は古地図に書いてある文字をそのまま書いています。「侍町」はの町、「町」は町人の町、「足軽町」は足軽の町です。身分によって住む場所がゾーニングされています。あと、「寺」は寺、「田」は田ですw。「本丸」は久保田城(秋田城)です。上図の都市全体の大きさは、目測でw、南北方向で2.5〜3kmくらいです。

上図に入れた黄文字の「秋田駅」と「なかいち」(エリアなかいち)については、前述の「戦いは終わらない――「中心市街地」対「大型ショッピングセンター」」の記事と「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事を参照。もちろん、当時(江戸時代)にはどちらもまだありませんw。前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事でも書いたのだけど、「秋田駅」の開業は1902年(明治35年)です。「なかいち」は昨年(2012年)の7月に開業したばかりです。出来立てのホヤホヤです。

あと、その「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事では、僕は「秋田市の旧市街地(商業地)は、現在の中心市街地よりも西側の河川沿い(旭川沿い)にあったのです。」と書いています。つまり、秋田市の旧市街地(商業地)は、上図の旭川の西側の「町」のところです。ここの町人文化は江戸時代から連綿と続いているのです。

また、その記事の【追記】では「【地域経済】イオン出店計画 秋田市広小路商店街組合「協議に応じるな」 県などに要望書 [12/10/20]」(ライト2ちゃんねる、2012年10月24日)から、「(前略)藩政時代の古地図と比較すればわかるが、秋田(久保田)城下町の、本来の町人町は川の向こう側で、(中略)広小路は商業とは無縁の武家町だった。それが、近代になって、秋田駅が町人町とは反対側に出来たため、街道の往来に依存していた旧来の繁華街から、商業機能を奪い取る形で、【ザ・駅前商店街】として成立した」のレスを引用しています。文中の「町人町」は上図の「町」で、「武家町」は上図の「侍町」です。「広小路」(秋田駅の駅前商店街)は「なかいち」のすぐ北側を東西に走っている道路です。

大ざっぱなポイントは、都市の近代化過程で「鉄道駅」が旧都市部の内部ではなくて外縁(端っこ)に造られた、という事だと思います。これは青森市でも高松市でも同じです。「交通史観が示唆する市街地活性化の行く末」(大和総研、2010年7月14日、鈴木文彦)から少し引用すると、「(前略)歴史は辺境で作られる。新しいスキームを作るにあたって過去のモノとの軋轢を避けようと思えば、そのフィールドに新天地が選ばれるのも無理はない。」という事です。そして、「広小路」(秋田駅の駅前商店街)が栄えた理由は、この道路が「鉄道駅」(秋田駅)と旧市街地(町人町)を結んでいたからです。人が行き来する通り道になっていたのです。要するに、「2核1モール型」の大型ショッピングセンターの「モール」の部分のようになっていたのです。この形成パターンは青森市の「しんまち商店街」も同じです。〜と、話が外れてきたのでw、古地図に戻ります。

■ 「御城下絵図(秋田藩)」 宝暦9年(1759年)

最初に載せた「出羽国秋田郡久保田城画図」から約100年後の古地図です。上図の古地図では、「侍町」は緑色、「足軽町」は抹茶色、「町」はピンク、「寺」は白、とそれぞれ色分けされています。とても見やすいです。でも、前述したように、身分によって住む場所がゾーニング(色分け)されていたのです。更に、「侍町」では身分の高い人ほど城(藩主)の近くに住んでいたのです。つまり、出世や降格がある度に、住む場所も移動していたのです。かなりシビアです。でも、反対に、足軽は「町」にも住む事はできたようです。ま、と言っても、詳しい事は僕は知りません(ははっ…)。

また、最初に載せた「出羽国秋田郡久保田城画図」と上図の「御城下絵図」を比較すると、この約100年間で、都市全体の大きさが拡大している(南の方向に伸びている)事が分かります。おそらく都市の人口が増えたのでしょう。内閣府の「(コラム)中世以降の日本の人口の変化」(2005年)から少し引用すると、日本の人口は「(前略)慶長時代(1600年)には約1,220万人、江戸時代には、17世紀に人口が増加し、18世紀以降、おおむね3,100万人から3,300万人台で推移したと考えられている。」との事です。

では、次。

■ 「大日本管轄分地図(秋田県管内全図)」 大正4年(1915年)

先の「御城下絵図」から約150年後の古地図です。上図の「停車場」が現在の「秋田駅」です。また、久保田城(秋田城)の「本丸」が「千秋園」(現在の千秋公園)になっています。都市の近代化が始まっています。また、上図の表によると、当時(1915年)の秋田市の人口は約3万2000人のようです。ちなみに、現在の秋田市の人口は約32万人です。10倍です。あと、前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事では、「(前略)「秋田駅」の開業は1902年(明治35年)なのだけど、秋田駅前には大日本帝国陸軍(歩兵第十七連隊)の施設が占めていたので、秋田駅前が中心市街地(商業地)として栄えるのは、実質的には「戦後」に入ってからなのです。」と書いています。

古地図は、以上です。

次に、空中写真も載せておきます。下図は、上図の「大日本管轄分地図」から約50年後の国土地理院の「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧(秋田市)」(1962年)と、更に約50年後の「グーグルマップ」の航空写真です。

 

「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧(秋田市)」(1962年)は、ちょうど秋田駅の駅前や駅前商店街(広小路商店街)が栄えていた頃の写真です。前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事で書いたように、「秋田駅の駅ビル「トピコ」が開業したのは1961年」です。この頃の秋田市の人口は約20万人です。(現在の秋田市の人口は約32万人です。)

うーん。しまった(汗)。上図はトリミングしすぎたせいで、やや分かりにくいのだけど、上図の国土地理院の元の写真(→写真)を見ると、この頃はまだ都市全体が田畑に囲まれていた事が分かります。「グーグルマップ」の航空写真は、ほぼ現在の写真です。田畑が住宅地に変わっています。ま、要するに、上図の二つの写真で、「郊外化」(スプロール化)のビフォー・アフターになっているわけです。1970年代の広小路商店街については、「二〇世紀ひみつ基地」のブログの「広小路が中心商店街だった時代・1973」(2008年5月22日)の記事と「広小路ホコ天時代・70年代初頭」(2008年5月28日)の記事を参照。現在の広小路商店街については、前に本ブログの「【車載動画】秋田市の中心市街地」の記事で載せた、「【車載動画秋田市中心市街地」(2011年4月19日、superyomogi)のYouTube動画(→動画)の3分55秒頃からを参照。

最後に、「グーグルマップ」の航空写真に入れたピンクの線の枠は現在の秋田市大町です。ま、大体、冒頭の江戸時代の古地図の「町」(町人町)だったところです。旭川の西側の「秋田市の旧市街地(商業地)」です。では、現在、この場所はどうなっているのだろうか?

秋田市 夜の大町・川反近辺」(2011年3月4日、umitake)のYouTube動画(→下の動画)より。(一応、上図に入れた青線がこの動画(車載動画)の「走行ルート」です。山王大通りを東へ→右折(25秒頃)→川反通りを南へ→右折(4分35秒頃)→横町通りを西へ→右折(5分0秒頃)→大町通り(赤れんが通り)を北へ。

うーん。

これは妖しい(汗)。夜の大町はタクシーだらけですw。東京のあそこによく似ています。前に(僕の)別ブログの「Kinkyo-2」の記事で、そこに「最寄り駅がないのはなぜか?」と書いたのだけど、それと同じ事が起こっているようです。でも、この場所(秋田市大町)は、約400年前の江戸時代の「町」(町人町)だった頃から、今日のこれと同じような妖しさを、併せ持っていたんだと思います(たぶんw)。前述したように、「ここの町人文化は江戸時代から連綿と続いている」んだと思います。ま、とは言え、やはり動画だけではよく分からないので、実際に現地へ行ってみるしかないですね(こらこらw)。

ざっとネットで調べてみると、この場所(秋田市大町)は、「秋田県では一番の繁華街です。」、「市街地を流れる旭川に沿って開けた秋田市の最も賑やかな夜の街。1000軒もの店舗が建ち並ぶ東北でも最大級の規模を誇る飲食店街で郷土料理を楽しめます。」等々との事です。前述の「二〇世紀ひみつ基地」のブログの「真夏日の夕刻、川反界隈を歩く」(2012年7月31日)の記事も参照。「一酒一会」のブログの「あかい灯、あおい灯」(2009年1月24日)の記事も参照。後者から少し引用すると、「(前略)連日忙しくて、予約もなかなか取れないというお店もあるんですよ。そんなお店の共通点は、ちゃんと作った美味しいお料理と選び抜いた美味しいお酒を、お手頃価格で、楽しく食べて気持よく飲んで戴く、当たり前のもてなしをしてくれるお店です。バブル的飲食ではなく、実質的で、費用対効果をキッチリと充足させてくれるお店、と云えるかもしれません」との事です。とりあえず、以上です。

あ、あともう一つだけ。秋田市の江戸時代の「侍町」(武家町)はどんな感じだったのだろうか、と思って少し調べてみたのだけど、秋田市の東隣の仙北市角館町の「武家屋敷通り」に、藩政時代(江戸時代)の街並みが残っているようです(下図)。ま、もちろん、ここは秋田市ではないのだけどw、秋田(久保田)の城下町もこんな感じだったのではないかと思います(たぶん)。

素敵ですよね。こういうの僕は大好きです。

冬の「武家屋敷通り」の写真です(下図)。きれいです。

そして、先週の「【画像】秋田駅および秋田市内が大雪で異世界」(NAVERまとめ、2012年12月26日、キタキタ親父さん)も参照(ははっ…)。ではまたw。