都市貧困と都市計画――Mega-Cities, the Urban Poor and the Place of Planning

 
Lecture: Mega-Cities, Urban Poverty and Planning / Janice E. Perlman」(ArchDaily、2012年10月14日、→下の動画)より。


Janice E. Perlman, author, researcher and CEO of The Mega-Cities Project, discusses her work in this lecture at the Harvard GSD for the “Urbanization Seminar Series”. This in-depth lecture, titled “Mega-Cities, the Urban Poor and the Place of Planning” covers Perlman’s research and observation in India’s slums, noting the way people upgrade the status of the slum and their own opportunities through minor reforms on small-scales.

The term mega-city was defined by the U.N. in 1970s to categorize cities according to population. The initial definition regarded cities with a population of eight million as being a mega-city and that number soon jumped to ten million. A city that is a “mega-city” has no relationship to its economy. It “does not equal a global city, it does not command global capital” necessarily. Instead, “mega-city” is an interesting term because above all it defines a human condition. It puts people, the social fabric of the city, at its center and opens the dialogue to discussions of urban issues and flows associated primarily with density.

This is the point of departure for Perlman’s lecture. She discusses the intimate details of her projects and research, stories from people with whom she has lived and whom she has interviewed. She makes it clear the improvement of a city is ineffective when it discounts the impoverished class: a critical resource, a labor force and brain power.

Perlman discusses small steps that took place within the slums of India that worked towards improving the status a “slum-dweller” with programs and intiatives that empowered a group of people used to living on the outskirts and constantly being harassed by authorities. The initiatives that Perlman talks about include giving authoritative power to people, allowing them to choose how to live and giving them the opportunity to building their homes under better conditions.

以上です。でも、僕はこのレクチャー(上記の動画)は全部はまだ観ていません(おいおい…)。

とりあえず、関連してそうな、(僕の)ブログの記事を挙げておきます。

・ (僕の)別ブログの「スラムの惑星」の記事参照(マイク・デイヴィス著「スラムの惑星――都市貧困のグローバル化」)。

・ (僕の)別ブログの「雑記&まとめ」の記事参照(「インドを舞台にした映画の「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)、→動画)。

・ 本ブログの「リチャード・フロリダ「都市の高密度化の限界」を翻訳してみた」の記事と、「「スーパー・メガ地域」への道」の記事参照(「(都市経済学者の)リチャード・フロリダは、著書「クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める」(2009年)では、「コルカタ(旧カルカッタ)やデリーといった都市は巨大だが貧しい。」(P.54)、「人口の多さは経済成長とは関係がない。」(P.55)、「単にビルが高層化したり人口が増えたりすることで、既存のメガ地域(メガロポリス)が成長する可能性はそれほど高くない。」(P.90)等々と述べています。」)。

(補足。上記のリチャード・フロリダに対して、都市経済学者のエドワード・グレーザー(Edward Glaeser)は、前に本ブログの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」の記事と、「リチャード・フロリダ「都市の高密度化の限界」を翻訳してみた」の記事で引用した、「R氏の3R・イン・Paris」のブログの「「Triumph of the City」と「The Future of Power」を読みました」(2012年1月15日)の記事から別の箇所を少し引用すると、エドワード・グレーザー著「Triumph of the City」(2011年)は、「(前略)「都市」の人類社会における位置づけを明らかにした上で、世界各地の成功した都市と失敗した都市の開発の歴史を解説した本です。まず、本書は「都市」に対するネガティブなイメージ(「スラム→貧困と犯罪の温床」等)を正すことから始めます。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを例に挙げ、あのようなスラムができること自体、都市の人を引き付ける力を示していると論じます。都市には現金収入を得られる仕事があり、下水道・医療機関・警察といった社会インフラもあります。郊外で職にありつけなくても、都市に行けば仕事があり、そうした希望があるからこそ人は都市に集まっていく。成功して大金持ちになるチャンスもあるし、優れた医療を受けられるチャンスもあります。政府のなすべきことは、都市への人口流入を防ぐことではなく、社会的インフラを整備し、衛生環境を向上させることとしています。」との事です。ま、簡単に言えば、「スラム」は確かにひどい環境ではあるのだけど、その「スラム」のある都市の周辺部(郊外部や農村部)はもっとひどい、「スラム」のほうがまだましである、という事です。「スラム」について考える時には、その「スラム」の“向こう側”にある環境もよく知っていなければならないのだと思います。。*1

・ 本ブログの「東京(首都圏)は滅亡する―第2回」の記事の追記で載せた、「いつの間に人類は70億人に増えた?コップで解説(動画)」(ギズモード・ジャパン、2011年11月6日、→動画)と、公衆衛生学者のハンス・ロスリングの「ハンス・ロスリング:地球規模の人口増加について」(TED、2010年6月)を参照。少し引用すると、「世界の人口は次の50年間で90億人に増加し、貧困層の生活水準を引き上げることこそが、人口の増加への抑制につながるのです。」とハンス・ロスリングは述べています。また、「ハンス・ロスリングが語る「宗教と赤ちゃん」」(TED、2012年4月)では、世界人口は2100年におよそ100億人に達するのだけど、「世界人口は100億人程度を境に増加しない」とハンス・ロスリングは述べています。

(補足。関連して、「高成長の終焉と低エネルギー、省資源社会への移行」(アゴラ、2012年10月12日、辻元)、「エネルギー効率からみたエネルギー資源の枯渇」(アゴラ、2012年10月15日、辻元)を参照。また、「時間濃縮された資源利用の限界」(アゴラ、2012年9月22日、辻元)では筆者は、「人口の自然減に期待するのが、現実的な選択だろう。」と述べています。ま、日本はこれから「人口減少時代」を迎えるわけだけど、人口が減る事自体は、何も問題はないのです。問題は少子高齢化が進んで、人口の年齢別構成が急激に変化する事にあるのです。もっと言えば、その急激な変化に社会制度の改革が追いつかなくなる事が問題なのです。関連して、「書評:年金問題は解決できる」(アゴラ、2012年10月13日、城繁幸)も参照。*2

とりあえず、以上です。ではまた(超ドタバタ)。

*1:“向こう側”にある環境」と関連して、本ブログの「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する」の記事参照(「大量生産方式の工場と言うと、チャーリー・チャップリンの映画「モダン・タイムス」(1936年、→動画)のような過酷な労働を連想するけど、過酷な労働であるがゆえに労働者の給料は高かった」)。また、本ブログの「松谷明彦著「人口減少時代の大都市経済」からの引用集(メモ)」の記事では、戦後日本が選択した「壮大な重化学工業国家の建設」(傾斜生産方式)について少し書いたのだけど、ウィキペディアの「傾斜生産方式」の項から少し引用すると、「(前略)相対的に製鉄所の生活環境は物的に恵まれていた」、「さらに炭鉱においては、(中略)主食、衣類、酒、たばこなどが特別配給され、社宅(炭住)の整備など会社による福利厚生もあわせれば、坑内労働の過酷さがあっても、住み心地の良さを求めて各地から志願者が詰めかけた」との事です。ま、要するに、何をもって「ひどい環境」であるとか「過酷」であるとかを見なすかは、極めて相対的なのであるという事です。関連して、(僕の)別ブログの「物憂げな6月の雨に打たれて」の記事を参照(「厚生経済学者のアマルティア・センは、(中略)著書「不平等の再検討―潜在能力と自由」(1992年)で、「豊かな社会の中で貧しい事は、それ自体が潜在能力の障害となる。」と述べている。その理由は、「テレビ、ビデオ、自動車、携帯電話、パソコン等々の近代的装備がかなり普及しているという意味で物が豊かな社会に居住する人々が、(中略)これらの装備を欠くということは、それらの装備の普及度が低い社会においてそれら無しに社会生活を送るよりも、機能と潜在能力においてより大きな剥奪を被っていることになる。なぜならば、これらの装備の普及度の高い諸国では、これらの装備の保有をコミュニケーションの手段として前提する形で、社会が運営されるようになるからだ。」(吉原直毅)」)

*2:本ブログの「永久公債、国有不動産」、「2020年の東京」、「大阪維新の会の「船中八策」についてのメモ書き」、「木々の家、ガルウィングの家」等の記事参照(「積み立て型年金制度の導入」)