コンパクトシティの正しい答え――中心市街地の再生は諦めて、住宅地にする

(追記(2012/9/29)あり。)

メモのみ。

第220回 コンパクトシティ時代における“中心市街地”の新たな役割〜中心志向から脱却し“住まう街”へ
大和総研、2012年9月26日、鈴木文彦

人が都市に集中し、徒歩から自家用車へ移動のリーチが長くなったのにあわせて都市の範囲も拡大した。城下町宿場町に起源をもつ旧市街の枠をはみ出て、街は郊外に浸潤してゆく。単に同心円状に広がったわけではない。中心も移動している。以前、街の在りようは交通手段に規定されるという「交通史観」を書いた。河岸や旧街道に元々あった街の中心は、移動手段の主なものが舟運、鉄道そして自家用車に変遷したことを反映し、まず鉄道の駅に引き寄せられ、さらにはバイパス沿線、高速道路のインターチェンジの麓に向かってゆく。

(中略)青森駅から東に伸びる「しんまち商店街」。ねぶた祭りの運行コースである。中心市街地活性化の成功事例としてしばしばとりあげられる駅前の再開発ビル「アウガ」であるが、思うように客足が伸びず、平成20年に事実上の債権放棄に陥った。(中略)その一方、住む街としての関心が高まっている。平成17年、閉店した松木屋百貨店の跡地に15階建てのマンションが建った。平成19年には高齢者対応型マンションを核とした複合ビル「ミッドライフタワー」が完成。中心市街地に新築した40戸の賃貸住宅を公営住宅として借り上げるなど、青森市は「街なか居住」を推進している。豪雪地帯なので雪かきをしなくてもよいメリットがある。

要するに、商業地の尺度をもって中心市街地の衰退と認識するのは早計だ。城下町や宿場町を由来とする旧市街の町割りは徒歩で生活するのに適している。そもそも城下町に車道は無かった。歩く範囲で生活必需品がそろう。道路が狭いというのも徒歩を前提とすれば有利に働く。さらに、郊外住宅地よりも容積率が緩く中高層建物が建てやすいという特性もある。

(中略)地方都市において業務、商業、医療の中心地が郊外に移転する理由はそれなりにある。高度・救急医療はインターチェンジ前にあったほうが確かに便利だ。それでも、かつての中心市街地は衰退し滅びるわけでなく、郊外を取り込み拡大した都市圏の一部分として生き残るだろう。住民の高齢化をきっかけとして、日常の移動手段として車を使わない人が一定数を超えて層となり、徒歩圏内で生活をまかなうライフスタイルの確立をみる。そのとき、かつての中心市街地は「住まう街」としての新たなポジションを獲得するからだ。このような未来観の基に「コンパクトシティ」を計画すべきである。言い換えれば、時代の流れに逆らってまで都市圏の中心性に拘泥することはやめようということだ。

(かなり後略)

これ“正解”です。とても良い記事です。

〜と書くと、何か小生意気っぽいけどw、僕の考えと同じです。一緒です。「交通史観が示唆する市街地活性化の行く末」(大和総研、2010年7月14日、鈴木文彦)も参照。*1

ま、要するに、「都心の郊外化*2」戦略です。これが正しい「コンパクトシティ*3」のかたちです。

以上です。

コンパクトシティ」については、そのうち詳しく書きます。とりあえず、僕の“結論”を先に書いておくw。

関連して、「青森市の中心市街地活性化「コンパクトシティ政策」と観光まちづくり」、「事業検証 中心市街地活性化 富山市にみるコンパクトシティの問題点」(合同会社フォーティR&C、2011年11月、水津陽子)を参照。あと、従来の「コンパクトシティ」を擁護する論としては、「『人口減少時代における土地利用計画―都市周辺部の持続可能性を探る』(2)」(都市計画・まちづくり・地域再生編集日誌、2010年9月23日、前田裕資)、「久繁哲之介『地域再生の罠』に反論する(3)富山市のコンパクトシティ政策は失敗か」(都市計画・まちづくり・地域再生編集日誌、2010年7月22日、前田裕資)がとても良い記事です。ではまた(ドタバタ)。

【追記】

上記の「青森市」の地図です(下図)。

上記の「青森駅から東に伸びる「しんまち商店街」」の写真です(下図)。

追記は以上です。

ところで、上記とは全く関係ないのだけどw、「青森県」は何で「弘前県」ではないのだろう?と思って、少し(ネットで)調べてみると、「青森県史の質問箱03」(青森県のHP)によると、1871年廃藩置県で「政府は当初、弘前県を設置して弘前を県庁所在地にしようとしたのですが、すぐ青森に県庁を移し、結果的に青森県と改称しています。(中略)弘前藩士の抵抗を避けるという理由もあったかもしれません。」との事です(ははっ…)。関連して、本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」の記事参照(「「福島県」が「会津県」にならなかったのは、会津藩戊辰戦争旧幕府軍側について明治政府と戦争をしたから」)。

ついでに、上図の「アスパム」のデザインが「△」(三角形)の形をしているのは「青森」(Aomori)の頭文字の「A」をかたどっているからなのだそうです(なるほどw)。となると、「アウガ」が赤いのは「りんご」が赤いからではないかと思います(たぶんw)。このようなアイコニック(iconic)な繋がりを有した建築のデザインは、僕はとても好きなのだけど、少々分かりにくいのが難点ではないかと思います。または、クイズ的(謎謎的、謎掛け的)すぎるとも思います。(僕の)別ブログの「情報化を経ることで新しい発動を見せるのだ」の記事参照(「(建築家の磯崎新が設計した)「水戸芸術館」(中略)の唯一の欠点は「わかりにくい」という事だと思う。」)。そして、それに対して、僕がいつもノート(落書き帳)に描いている「アイコン建築」は、とても分かりやすいのです。本ブログの「もし建築が「リボン」を付けたら――Architecture of Ribbon」の記事参照(「とくに説明する事はないのだけどw、難解な説明がいらない事が「アイコン建築」の長所」)。簡単に言えば、例えば、「りんご」のデザインであるならば、「りんご」の形をそのままコピペしたほうが良いのである、という事です。(例→画像

ま、もちろん、いわゆる“自称”文化人たちは、アイコニックな建築をひどく嫌う、という事くらいは僕でも知っています。なぜなら、学校(大学)でそのように統整された「建築教育」を受けたからです。本ブログの「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する」の記事の注釈3を参照(「(前略)僕ではないけど、少女マンガを描くのが好きなコがいて、(学校の建築デザインの設計演習で)自分の個性の羽を広げた途端、彼女は(先生たちから罵倒の限りを尽くされて)奈落の底に突き落とされてしまいました。」)。関連して、「「太陽は何色で描くか?」アンケートと日本と海外の違いについて」(トゥギャッター、2012年6月6日、m_non)を参照。少し引用すると、「あなたは太陽と聞いて何色を思い浮かべますか?」、「太陽が赤って日本人特有のイメージなのよね。」、「ドイツから帰ったばかりのとき、先生からも園児からも「太陽を赤で描かないなんておかしい」と言われた思い出が。(中略)あれが最初に日本ってこんな窮屈でつまんない国なんだと思った体験(後略)」、「私も子供の頃、太陽は黄色で描いてましたよ。でも幼稚園の先生に「太陽は赤でしょ?」って言われておとなしく従いつつ「夕日じゃない時まで赤って大人は馬鹿なんじゃない?」って真剣に思いましたよ。黄色で描いてた人がいてうれしいです!」、「母から聞いた話ですが、私が小学生のとき(私のクラスではないんですが)、図工かなんかで木の絵を書いたらしいのですが、クラスの子どもが書く木の色、太さ、大きさが全く同じで怖かったことがあるそうです。「あなたのクラスじゃなくてよかった」と言ってました(笑」、「私の友達の小学校では先生が「太陽は赤くないだろ。赤で描くな!」と叱ったがために、誰も太陽を描かなくなったそうです(笑)日本で太陽=黄色のイメージはなかなか根付かないようです。」との事です*4。「最近の少女漫画のカオスっぷりがすごい【まゆたんだけじゃない】」(NAVERまとめ、2012年9月20日、sw2x)も参照。あと、「JUSTICE 第2回「命に値段をつけることに正義はあるか」「喜びを測定して出した結論は公平か」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室」(VISUALECTURE、2010年6月29日)の後半(Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」)も参照。少し引用すると、「シェイクスピアハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。」との事です。これは難問です*5。うーん。。ま、話がこの記事の最初の「コンパクトシティ」から離れすぎたのでw、とりあえず、この辺にしておきます。ではまた(ドタバタ)。

*1:その「交通史観が示唆する市街地活性化の行く末」(大和総研、2010年7月14日、鈴木文彦)から少し引用すると、「宮城県石巻市は江戸時代から仙台藩62万石の貿易拠点として、また北上川から太平洋への乗換港として発展した街である。(中略)明治になってからも水上交通の拠点であることに変わりなく、人や物資が行き交っていた。(中略)街に最初の変化があったのは昭和50年であった。(中略)せめぎあいの末に石巻の中心が北上川河岸から駅前に移った背景には交通手段の変化があった。石巻の発展を支えた北上川の水運から、主力が鉄道輸送に移ったのである。(中略)そして平成22年。最高路線価地点が駅前に移って15年経った。先日発表された路線価をみると、(中略)石巻駅の西北3キロにある「蛇田地域」が48000円と肉薄していた。高速道路(三陸自動車道)のインターチェンジのふもとに大型ショッピングセンターが次々と建ち、拠点病院も移転してきたりしてここ10年で大きく発展してきた地域である。(中略)蛇田地域の発展の裏で駅前通りの衰退著しい。(中略)振り返ると、石巻の中心地は北上川河岸にはじまり、長年のせめぎあいを経ながら駅前に移ったが、それから10数年で、ロードサイドを経てインターチェンジのふもとに変わりつつある。底流には河川から鉄道へ、そしてバイパスを経て高速道路に至る主要交通路の変遷があった。(中略)根源的には、市街地の場所と在り様は交通手段で規定されると考える。そして歴史は辺境で作られる。新しいスキームを作るにあたって過去のモノとの軋轢を避けようと思えば、そのフィールドに新天地が選ばれるのも無理はない。市街地の栄枯盛衰も同じである。(中略)そして街の中心が移動しつつ周辺を取り込んで拡大してゆくパターンは、程度の差こそあれ全国どこでも観察できる。これは不可逆的な発展法則のひとつなのではなかろうか。交通史観にこれからの市街地活性化を考えるヒントが隠されていると思う。」との事です。

*2:本ブログの「リチャード・フロリダ「都市の高密度化の限界」を翻訳してみた」注釈3の記事参照(「都心の郊外化」)

*3:本ブログの「コンパクトシティは地球に優しくない、エネルギーの無駄遣い」、「環境理想都市――多心シナリオによるコンパクトシティ」の記事参照(「コンパクトシティ」)

*4:関連して(?)、「男性と女性では色認識に違いがあった!」(火星人ペガサスの実情、2012年6月12日)を参照。少し引用すると、「図(→画像)のように、女性は様々な色を分けているけれど男性はある程度まとめて『赤!』とか『青!』とか言ってる…らしい。(後略)」との事です。「男性と女性、物の見え方に違い」(ナショナルジオグラフィック ニュース、2012年9月10日)も参照。少し引用すると、「(前略)例えば、果物のオレンジは、男性には女性より少し赤く見えている可能性がある。同様に、緑の草は、ほぼ常に女性のほうがより緑色に見え、男性には少し黄色がかって見えている可能性がある。(後略)」との事です。へぇー。「Rare Images of Le Corbusier, in Color」(ArchDaily、2012年9月26日)の記事にあったこの写真(→写真)も参照。建築家のル・コルビュジエが描いた太陽は「黄色」です。関連して、本ブログの「東京(首都圏)は滅亡する―第2回」補足の記事参照(「建築家のル・コルビュジエは都市計画では「日照」(太陽)をとても重視した」)

*5:本ブログの「津波のような建築――Disaster Prevention and Education」、「津波の記憶を風化させないために出来る事は何か――津波と船と建築」の記事参照(「これは難問です。」)