シンガポールと日本の明暗を別けたもの

 
World Architecture Festival in Singapore」(ArchDaily、2012年9月6日、→下の動画)より。

うーん。

まさに、「これこそが都市だ!」という感じがします。勢いがありますw。良い動画です。

と同時に、今の日本に欠けているもの、失われているものが何かもよく分かります。最近の(日本の)建築系サイトを見ていると、僕とは全く「哲学」が違う人たちなんだなぁと、しみじみと思ってしまいます。前に本ブログの「もし建築が「リボン」を付けたら――Architecture of Ribbon」の記事で、「(前略)この「悪循環」から脱するには大きく分けて3つのアプローチがあると僕は思います。第一に、西欧社会での「公共善」を日本社会にも涵養する事(近代化を進める事)。(中略)僕が描いている「アイコン建築」は、この第三のアプローチに該当します。現在の日本の多くの建築家は相変わらず、前述の第一のアプローチに傾倒しすぎているのではないか、と思う時がたまにあります。」と書いた感想と同じです。ま、「第13回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展」で、「東日本大震災をテーマにした日本館の展示「ここに、建築は、可能か」が国別参加部門で最優秀賞の金獅子賞を受賞した」事は当然だと思うし、大変に素晴らしい事だと思うのだけど、僕的には(ネットでは有名な)気仙沼市の20年後の未来を描いたコラ(→画像)のほうが好きです(ははっw)。勢いがあります。

ベネチア・ビエンナーレの日本館」に関しては、「ArchDaily」の「Venice Biennale 2012: Architecture. Possible here? Home-for-all / Japan Pavilion」(2012年8月30日)、「Venice Biennale 2012: Photos of the Japanese Pavilion by Patricia Parinejad」(2012年9月2日)等々を参照。

では最後に、前回に続いて、「アゴラ」から少し引用します(下記)。

シンガポールと日本の明暗を別けたもの
アゴラ、2012年9月7日、山口巌)

一人当りのGDPであっさり日本を追い抜いた後もシンガポール経済は好調を持続している。取分け、リーマンショック後の伸びは絶賛に値する。シンガポール政府舵取りの巧みさの結果であろう。 それに引き替え、相変わらず日本は冴えない。

(中略)それでは、一体何がシンガポールと日本の明暗をかくも明瞭に別けたのであろうか?

「政治力」の差ではないのか?

(中略)露骨に言ってしまえば、「日本の政治レベルが余りにお粗末で話にならない」のである。

翻って、シンガポールは如何であろうか?

聡明さで有名な、副首相で財務大臣を兼任するTharman SHANMUGARATNAM 氏が昨日行ったスピーチのテレビ映像を実際に視聴してみた。

日本の首相や閣僚が役人の書いた原稿を棒読みするのとは違い、自分で書いたのであろう簡単なメモを頼りに、手振り身振りを交え、実にしっかりと自分の言葉で説明している。それ故、声に力があり表現に説得力がある。

スピーチの中身で先ず共鳴したのは「経済発展」は必要との主張である。これにより、低所得者層を中流に押し上げ、これにより貧困層が希望を持てる様にする事で社会を活性化すると言うのである。

次に、経済発展の恩恵から落ちこぼれる国民への対策にも熱心である。「Inclusive Growthが必要」と言うフレーズが何度も繰り返される。これを意訳すれば、シンガポール政府は経済の繁栄から脱落する国民が出ない様、今後も関与を続けると言う決意表明と解釈する。

(中略)日本の政治の現状を見る限り、幾ら選挙を繰り返しても何も変わらない。寧ろ、選挙の度に劣化し、やがて政治そのものが朽ち果てて行く様に思う。そして、その内シンガポールの背中が見えなくなるのではないか?

就いては、一度成功しているシンガポール型の統治機構を徹底的に分析し、日本も出来る限り取り入れてはと思う。日本に残された時間は少なく、急ぐべきであろう。

以上です。

シンガポール通信ー日本はシンガポールでどう思われているか」(Nakatsu Ryoheiのシンガポール通信、2012年8月21日)も参照。ではまた。

【追記】

本ブログの「大阪維新の会の「船中八策」についてのメモ書き」の記事参照(「この際、日本を30のシンガポールに分けたらどうか? 国家が破綻するくらいなら国民が自ら立ち上がるチャンスを!」(日経ビジネス、2011年1月5日、田村耕太郎))。「世界2位のカジノ大国へ シンガポール ラスベガス超え予想」(産経ニュース、2012年7月23日)を参照。

それと、「経済的座り心地が政治的立ち位置を決める」(himaginaryの日記、2012年9月6日)を参照。少し引用すると、経済改革の「(前略)転換の結果としてその地域が勝ち組となりそうか、それとも負け組みとなりそうか、という予想の違いが、各人の政治的選好に影響を与えたように思われる。」との事です。だからこそ、経済改革を速やかに進めるには、上記の引用にあるような「Inclusive Growthが必要」という事になるのでしょう。うーん。かつて、日本では、負け組は自己責任であるという厳しい論調があったけど、これは明らかに間違っていたのだと思います。逆効果だったのです。理不尽に厳しすぎると、国民は逆に「尻込み」してしまうのです。「北風と太陽」(→動画)みたいな話かも知れません(たぶんw)。ま、詳しくは小島寛之著「確率的発想法――数学を日常に活かす」(2004年)の第5章の「尻込みする経済」、「構造改革論が見落としていること」あたりの節を参照。追記は以上です。