リチャード・フロリダ「都市の高密度化の限界」を翻訳してみた

 
都市経済学者のリチャード・フロリダ(Richard Florida)*1が、都市経済学者のエドワード・グレーザー(Edward Glaeser)に反論しています。一月前に、本ブログの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」の記事で、「R氏の3R・イン・Paris」のブログの「「Triumph of the City」と「The Future of Power」を読みました」(2012年1月15日)の記事から、エドワード・グレーザーの都市論の、「政府のなすべきことは、都市への人口流入を防ぐことではなく、社会的インフラを整備し、衛生環境を向上させること」、「人口流入を各種制度で幾ら制限しても人は都市に集まってきますし、そうした人々にチャンスを与えず、社会的インフラの不足を解決しない方が間違っている」、「人口流入や新たな住宅建設・インフラ整備を妨げるような規制はなくして、都市の空間を三次元的に使い切るべき」等々*2を引用したのだけど、エドワード・グレーザーのこうした都市論に対して、都市経済学者のリチャード・フロリダが「The Limits of Density」(The Atlantic、2012年5月16日)の記事で反論しています。

と言うわけで、リチャード・フロリダのその記事を翻訳してみた。でも、念のため、僕は英語は得意ではなく、更に、前に本ブログの「TPPの賛否」の記事で書いたのだけど、「僕は国語も得意ではない」ので(おいおいw)、英語が分かる方は、読まれる必要は全くありません(と言うか、読まないでもらいたい)w。英語が苦手な方には、多少は参考になるでしょうという程度ですw。では、拙訳です(下記)。

■ 「都市の高密度化の限界」

(The Atlantic、2012年5月16日、リチャード・フロリダ)

近頃、「都市の高密度化」(Density)が流行っています。都市経済学者の一部の人々は、ほんの数年前までは、「太陽、スキル、郊外化」(スプロール化)を賞賛していたのに、今では、「都市の高密度化」を、生産性の向上と経済成長の促進の鍵とみなしています。ハーバード大学エドワード・グレーザー(Edward Glaeser)教授は、「The Atlantic」誌の「なぜ超高層ビルは都市を救う事ができるのか(How Skyscrapers Can Save the City)」(2011年3月号)の記事で、「アメリカが経済的な基盤を回復しようと努力する時には、郊外化よりも『都市の高密度化』のほうが遥かに生産的で、より高収入の仕事を提供するという事を、私たちは覚えておくのが賢明です。(中略)高層ビルは、経済的な革新(イノベーション)とそれ自体の発展の中心である人々の相互作用(インタラクション)を可能にします」と述べています。善意の計画者(プランナー)たちと歴史建造物等の保存主義者たちが、ビルの高層化の行く手を阻むと、彼らは(不動産の)価格を上昇させる事になる、と彼(グレーザー)は論じています。過度に制限的な(ビルの)高さ制限は、経済発展を妨げるだけではなく、都市をより住みにくくするのです。

「都市の高密度化」に利点がある事に疑いの余地はありません。一般に、より密度の高い都市は、より生産的で、より革新的で、よりエネルギー効率も良いです。でも、ある限度内においてです。

都市の重要な機能は、人々とアイデアの交換と相互作用(インタラクション)と結合と再結合(組み換え)を可能にする事です。建築物が「街路の生活」(ストリートライフ)が見えなくなるほど大きくなると、この種の相互作用(インタラクション)は鈍らせられて制限されて、一般的に「スプロール現象」と結びつけて考えられているのと同じ孤立を生み出します。ジェイン・ジェイコブズ(Jane Jacobs)が「歩行者のスケールが欠如している場合、『都市の高密度化』は大きなトラブルになり得ます」とそれを適切に述べたように。多くのアジアの巨大都市(メガシティ)で見つけられて、そして、アメリカの大都市でますます計画されている「超高層ビルの峡谷」(skyscraper canyon)は、居住者と占有者が、都市生活(シティライフ)のごたごた(hurly-burly)と、頻繁に広範囲に関与しそうにない「垂直の郊外」(vertical suburb)となる危険(リスク)があります。*3

アーバンランド研究所Urban Land Institute)のエドワード・マクマホン(Edward McMahon)は、最近「Citiwire」に投稿した「『都市の高密度化』に高層ビルはいらない(Density Without High-Rises?)」(2012年5月12日)の記事で、「都市の高密度化」と高層ビルを区別する事を本題にしています。もし振り子が過去50年の間は、郊外化(スプロール化)の方向に極端に揺れていたとするならば、今日の危険(リスク)は、それが超高層ビル再都市化)に向かって極端に揺れて戻ってくるという事です。「高層ビルの建設に反対するという事は」、彼(マクマホン)はこう書いています、「ニンビーNIMBY)、まぬけな成長主張者、ラッダイト(機械打ち壊し運動を行った手工業者)――あるいはより悪い者、のレッテルを貼られる危険を冒すという事です。世界中で、低中層地域に、20階建て、40階建て、60階建て、更には100階建てのビルが計画されて建設されています。これらの計画の全ては、『都市の高密度化』が正しいならば、より一層の『都市の高密度化』はより一層正しい、という説明によって正当化されています。」*4

少し止まって考えてみてください。どんな種類の環境が新しい革新(イノベーション)とベンチャー企業(start-up)とハイテク産業を刺激しますか? 超高層ビル地区の中の高層オフィスビルあるいはタワーマンションで、この種の創造的破壊(creative destruction)が生じている例をあなたは挙げる事ができますか? 答えはノーです。高層地区は通常は、会社のオフィス機能あるいは住居のどちらかを収容します。戦後の時代の間ずっと、アメリカの大企業は、会社の機能のためにこれらの高層ビルを建設していた一方で、研究者たちを、研究者たちがより自由に交流する事ができた、緑に覆われた低層の研究開発キャンパスに収容したのです。*5

 

アメリカのハイテク産業の革新(イノベーション)のベンチャー企業のモデルは、「超高層ビルの峡谷」(skyscraper canyon)ではなく、シリコンバレー(Silicon Valley)のような場所で発達しました。そこは都市に似た様相があるために、創造(クリエイティビティ)のための理想的な生態系(エコシステム)を提供しました。ジョナ・レーラー(Jonah Lehrer)は、最近の「創造性は都市でどのように働くのか(How Creativity Works in Cities)」(The Atlantic、2012年5月2日、リチャード・フロリダ)の記事で伝えたように、シリコンバレーは大規模な工業団地と自動車に基づいているにも関わらず、「シリコンバレーは、相互作用(インタラクション)と知識スピルオーバー(knowledge spillover)の多様性を促進する『高密度都市』の重要な機能を、うまく再現している」と述べています。*6

同様に、あなたは素晴らしい芸術地区と音楽シーンを、高層地区ではなく、例えばニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ(Greenwich Village)あるいはソーホー(SoHo)、あるいはサンフランシスコのミッション地区(Mission District)のような、より古くからの歴史的な住宅地区、工業地区あるいは倉庫地区で見つけます。そして、そこはエレベーターが高層の建設を可能にする以前に造られたのです。*7

今日、出現している都市のテクノロジー地区は、サンフランシスコのソーマ地区(SoMa)からニューヨークのシリコンアレー(Silicon Alley)とロンドンのシリコンラウンドアバウトSilicon Roundabout)まで、同様に歩いて行ける(walkable)低中層地域に収容されています。

私たちに必要なのは、私たちがどれくらいの人々を物理的に空間に詰め込む事ができるかを単に数え上げる事ではなく、その空間がどれくらい良く利用されているか、どれくらい相互作用(インタラクション)を促進しているか、を説明する密度の新しい尺度です。「この尺度によると」、マクマホンはこう書いています、「より古くからの地域の1ブロックは、ワシントンD.C.のケイストリート(K Street)の高層オフィスビルの1ブロックよりも、いつも(24/7)の使用の活気と強度で、コミュニティ劇場、コーヒーショップ、アートギャラリー、2軒のレストラン、自転車屋、10の音楽リハーサルスタジオ、教会、20のアパート、2、3のバーとその他いろいろを、ずっと多く含んでいるのかも知れません。」*8

今日、あまりにも多くの人々は「都市の高密度化」を(建物の)高さと混同しています。本当の相互作用(インタラクティブ)の密度は、他の手段によって、より良く達成する事ができるのです。「イエス、私たちはよりコンパクトで、歩いて行ける(walkable)より高い密度のコミュニティを必要としています」、マクマホンはこう書いています、「でも、私たちはスマートグロース(smart growth)あるいは持続可能な開発(sustainable development)のゴールを遂行するために、何千もの外観の似ているガラスと鋼の超高層ビルを建設する必要はありません」*9ワシントンD.C.ジョージタウン(Georgetown)、ブルックリンのパークスロープ(Park Slope)、リッチモンドのファン地区(Fan district)のような地域は、大部分はエレベーターの時代の以前に造られて、そして、それらは全て高密度です。ニューオリンズの「フレンチ・クオーター(French Quarter)のネット密度(住宅用地の面積に対する密度)は38戸/エーカーで、ジョージタウンは22戸/エーカー」です。本当の問題は、単に(建物の)高さの事でも人々と仕事を一塊にする事でもなく、相互作用(インタラクション)と再結合(組み換え)を可能にする事なのです。

「『都市の高密度化』は必ずしも高層ビルを必要としません」、マクマホンはこう書き留めています、「超高層ビルは今日の世界では掃いて捨てるほど(a dime a dozen)あります。一旦、低層の都市あるいは街が高層ビルの熱狂に屈するならば、更に多くの高層ビルがあとに続くでしょう、その都市が『どこにもない地理』(geography of nowhere)の中の他の全ての都市のカーボンコピーになるまで。」*10

以上です。(念のため、上記の写真は、僕が適当に入れています。元の記事にはないです。)

意外と時間がかかった(ワラ)。ま、上記の内容は、僕がリチャード・フロリダの本の愛読者という事もあってか、おおよそ想定の範囲内でしたw。例えば、リチャード・フロリダは、著書「クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める」(2009年)では、「コルカタ(旧カルカッタ)やデリーといった都市は巨大だが貧しい。」(P.54)、「人口の多さは経済成長とは関係がない。」(P.55)、「単にビルが高層化したり人口が増えたりすることで、既存のメガ地域(メガロポリス)が成長する可能性はそれほど高くない。」(P.90)等々と述べています。(興味がある方は、リチャード・フロリダの本を読んでみてください。是非。)

あと本当は、上記でリチャード・フロリダが反論する元となった、エドワード・グレーザーの「なぜ超高層ビルは都市を救う事ができるのか(How Skyscrapers Can Save the City)」(The Atlantic、2011年3月号)の記事も翻訳する予定だったのだけど、全然無理です(長い)w。内容的にはエドワード・グレーザーのその記事のほうが突き抜けていますw。例えば、エドワード・グレーザーはその記事で、都市思想家のジェイン・ジェイコブズを批判しています。前に(僕の)別ブログの「Googleplex & iSpaceship」の記事の注釈11で、「ジェイン・ジェイコブズは「古い建築」は新しい建築よりも「安価」だから必要だ、と著書「アメリカ大都市の死と生」(1961年)で述べている。」と書いたのだけど、エドワード・グレーザーによると、これは需要と供給の関係に反しているとの事です。ま、要するに、上記で書いたように、「善意の計画者(プランナー)たちと歴史建造物等の保存主義者たちが、ビルの高層化の行く手を阻むと、彼らは(不動産の)価格を上昇させる事になる」という事です。(ウィキペディアの「ジェントリフィケーション」の項も参照。)

でも、前に(僕の)別ブログの「散らかってる点を拾い集めて」の記事の注釈4にメモしておいたのだけど、ジェイン・ジェイコブズは、著書「アメリカ大都市の死と生」(1961年)では、「わたしに言わせれば、高密な都市人口は資産です。(中略)十分に高密であると同時に多様性のある形で集中して収容されることを希望したいのです。」(P.250)、「多様性の自滅は成功によって起こるもので、失敗によって起こるのではないことを理解しなければなりません。」(P.279)とも述べています。この「多様性」については、本ブログの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」の記事参照。ま、結局のところ、私たちは「どこを目指しているのか」が問われているのだと思います。少なくとも、誰も「多様性の自滅」は望まないと思います。とりあえず、以上です。ではまた。

【おまけ】

ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの街並み(下図)。

グリニッジ・ヴィレッジのジェイン・ジェイコブズが住んでいた家(下図)。

ジェイン・ジェイコブズの著書「アメリカ大都市の死と生」(1961年)は、この家で書かれた。

*1:(僕の)別ブログの「フロリダ」、「メモ-3」、「Star House (星型の家)」、「Googleplex & iSpaceship」、本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」、「Googleの自動運転カー」注釈2、「東京は最大都市規模を超過しているのか」注釈2、「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」、「追記(2012/6/3)」(→写真)の記事参照(リチャード・フロリダ)

*2:エドワード・グレーザー著「Triumph of the City」(2011年)からの引用の引用(孫引き)。僕は未読。

*3:(僕の)別ブログの「イオンレイクタウン-3」の記事参照(「巷では(とくに建築の世界では)、都心マンションは「職住近接」の理念が実現されているので好ましいと見なされている方が多いですが、僕はそれはないと思います。僕の考えでは、僕の理論モデル(仮説)が正しいならば、都心マンションはbabyismのIntegral Project-2で書いた「都心の郊外化」です。更に、あえて分かりやすく言うと、都心マンションは「都心のベッドタウン化」、「都心のニュータウン化」です。」)。ついでに、本ブログの「東京計画2011」の記事参照(「このドローイングのコンセプトは、「都心のニュータウン化」、「都心の郊外化」、または、「都心部に郊外を作る」です。」)。関連して、(僕の)別ブログの「ドイツの田園都市」の記事参照(「鉛直の田園都市」、ル・コルビュジエ

*4:関連して、「東京の昼間人口、1500万人突破 過去最高に」(日本経済新聞、2012年6月26日)参照。引用すると、「東京都の居住者と昼間に働いたり通学したりする人の合計である「昼間人口」が、2010年に1557万人と前回の05年調査に比べて60万人増えた。1500万人を超すのは初めてで、東京への人の集中が浮き彫りとなった。(後略)」

*5:(僕の)別ブログの「World of Tomorrow の補足」の記事参照(「(グーグル本社は)3階建の低層建築。環境に配慮。本社なのに「キャンパス」と呼ばれる。」)。(僕の)別ブログの「Googleplex & iSpaceship」の記事参照(「Googleplex」(グーグル本社)と「iSpaceship」(アップルの新社屋))

*6:(僕の)別ブログの「Edge City」、「Googleplex & iSpaceship」、本ブログの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」の記事参照(「シリコンバレー」)

*7:(僕の)別ブログの「Flamboyant」の記事参照(「1852年、エリシャ・オーチスは落下防止装置付の蒸気エレベーターを発明した。(中略)以降、NYの摩天楼化に拍車がかかっていく。」、「1902年、フラットアイアン・ビル(NY)。ダニエル・バーナム設計。これはNYで最も古い摩天楼とも言われている。高さ87m。」)。(僕の)別ブログの「Prairie House」の記事参照(「テネメント」)。ついでに、(僕の)別ブログの「Integral Project-2」の記事参照(「(前略)ジャスコ等の郊外の大型商業施設も「低層で水平に広い建築」です。(中略)19世紀に発明されたエレベーターやエスカレーター等の昇降機で連結される空間よりも、古来からの「低層で水平に広い建築」のほうが買い物には適しているということ。」)

*8:(僕の)別ブログの「都市と工場-2」、「Googleplex & iSpaceship」の記事参照(「都市とは、生活と環境が継ぎ合う点々の集合体である。その都市の織り重ね方(構造)が肝心であって、都市人口の多さや過密度では決してない。」)

*9:(僕の)別ブログの「麦わら帽子とモンパルナスタワー」の記事参照(「(前略)この写真(→写真)に映っているガラス張りの高層オフィスビルの「ジョン・ハンコック・タワー」(1976年)とそのすぐ隣の「トリニティ教会」(1872年)の建築の大きさ(スケール)の違いを見れば、この100年間の建築技術(工学)の変化が尋常ではない事がよく分かる。でも、その一方、都市計画家の曽根幸一は著著「都市デザインノオト」(2005年)で、都市の高層化(住宅地密度の上昇)によって、建築の「集合形式の選択は極端に狭められる」、都市は「いわば風景の変曲点をこえてしまえば、もう多かれ少なかれ中性的な積層単箱の連続」になると述べている。言い換えると、「風景の変曲点」とは言わば、水が氷に変わる時の温度のようなもので、その「変曲点」を超えてしまうと、住空間の多様性は一気に失われてしまうのである。(中略)ここに過密の逆説(パラドックス)があるように思える。(中略)もちろん、多様性がどこか別の場所(中略)に生成する(逃げる)だけである、とも言える。」)。ついでに、(僕の)別ブログの「Star House-2 (星型の家-2)」の記事参照(「東京駅周辺の高層建築は全て「直方体」である(→写真)」)

*10:(僕の)別ブログの「Transit City (Integral Project-3)」の記事参照(「(前略)全世界の都市はますます競合しあい、しかしますます似かよったものになってゆく宿命にあると思う。興味深いジレンマだよね。(中略)「そこ」に人が足を運びたいと思うかどうか。しかも、そこにもう「そこ」はなくなっている。」、「無個性の快楽」、レム・コールハース)。関連して、(僕の)別ブログの「都市の非能率性と非実用性」注釈10の記事参照(「(新しい都市状態とは)効率度の異なる様々な状況が同時に共存し、おそらくそれらが互いに絶え間なく調整しあい、魅力的(=グラマラス)にさせあっているということじゃないかな。今現在は効率的なものが勝ちだが、十年後には非効率的なものが……。」、「無個性の快楽」、レム・コールハース)。ついでに、その「効率」と「非効率」に関しては、本ブログの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」の記事参照(ジェイン・ジェイコブズ著「都市の原理」(1969年)、「マンチェスターの能率、バーミンガムの非能率」)