未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか

(追記。下記に「追記(2012/6/3)」の記事を書いています。)

どったばったしております。ブログの更新が一月ほど空いたので、何か書きます(と言っても、今回はただの「メモ書き」ですw)。では早速、都市経済学者のエドワード・グレーザー(Edward Glaeser)の「Wall Street Isn’t Enough」(City Journal、2012年春)の記事から少し引用(メモ書き)します。

... A century ago, Alfred Marshall*1 emphasized that within industrial clusters, “the mysteries of the trade become no mystery but are, as it were, in the air.” The Nobel laureate Kenneth Arrow*2 created elegant theories about learning by doing, which would seem to be enhanced when an area concentrates in cars or finance. In the 1980s, Paul Romer, a pathbreaking economist now at New York University, made sense of long-term economic growth by emphasizing the increasing returns that came from the stock of knowledge-and in dense clusters, that stock becomes richer.

In the 1980s, Silicon Valley*3 seemed to prove these economists right. With a little help from entrepreneurial Stanford engineer Frederick Terman, who had mentored Hewlett and Packard and helped establish Stanford Industrial Park in the fifties, the region attracted many of the best minds in computing. This great concentration of talent in a single industry made it easier for entrepreneurs to connect with one another and exchange ideas ... .

... More than 40 years ago, Jane Jacobs argued in The Economy of Cities*4 that new ideas came from combining old ideas. ... To innovate, in Jacobs’s view, you often need to borrow the insights of another occupation-and since diverse*5 cities contain many occupations, they should encourage more leaps of insight.

At its extreme, this view predicts that Silicon Valley will eventually resemble Detroit*6. In the short run, industrial concentration can lead to rapid leaps along a technological path. But progress along that path will eventually grow slower and yield diminishing returns, since an industrial monoculture will not encourage radically new discoveries.

About 20 years ago, three coauthors and I examined industrial clusters within cities to test the Marshall-Arrow-Romer hypothesis against the rival Jacobs view. The data supported Jacobs. High levels of industrial concentration within the clusters in the mid-1950s were associated with less subsequent growth between 1956 and 1987. We also found that clusters in more diverse cities grew more quickly and that clusters with plenty of small firms grew more quickly than those with fewer, larger ones. ...

〜との事です。とても面白い。上記は「himaginaryの日記」の「都市の産業が偏るのは良くないのか?」(2012年4月24日)のブログ記事からの孫引き(孫リンク?)で、このブログ記事から少し引用すると、「(前略)そこで彼(エドワード・グレーザー)は、産業の集積を重視する経済学者としてアルフレッド・マーシャルケネス・アローポール・ローマーの3人を挙げている。一方、産業の多様性を重視する論者としてジェイン・ジェイコブズを挙げている。彼自身が20年ほど前に両者の主張を検証する実証分析を行ったところ、ジェイコブズに軍配を上げる結果が得られたという。」との事です(上記の青字の部分等)。前に本ブログの「TPPの賛否」注釈3の記事では、「ジェイン・ジェイコブズは、経済学者のデヴィッド・リカードの「比較優位」の説(モデル)を否定している」と書いたのだけど、これもジェイン・ジェイコブズに軍配が上がるのではないかと思います。都市経済学者のリチャード・フロリダ*7の著書「クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める」(2009年)の第4章「集積の力」では、「産業の集積」と「産業の多様性」の両方が掲げられていて、いまいち胸に落ちなかった(リチャード・フロリダの本はやや百花繚乱的なところがある、リチャード・フロリダはきっと、陽気なナイスガイだw)のだけど、おそらく、短期的には「産業の集積」が、長期的には「産業の多様性」が優位に立つのではないかと思います。

では、上記の「産業の集積」と「産業の多様性」と関連して、ジェイン・ジェイコブズ著「都市の原理」(初版1969年)の第3章「都市の非能率性と非実用性」の「マンチェスターの能率、バーミンガムの非能率」の節から少し引用(メモ書き)しておきます。(P.101-105)

(前略)手始めに、イギリスの二つの都市、マンチェスターバーミンガムを取上げ、都市の非能率性を調べることにしよう。一八八四年、ディズレイリの小説の中で、ある登場人物がこう語った。「マンチェスターは、確かに、現代の最もすばらしい都市だ。哲学者だけが、マンチェスターの威厳と未来の無限の広がりを認識できる」。都市問題史家のアサ・ブリッグズはその著『ヴィクトリア朝時代の都市』の中で、このせりふは「その時代を語るに最もふさわしい社会評論」の代表だ、と述べた。経済史の上でも、マンチェスターは特異な位置を占めている。マルクス*8エンゲルスが、この都市に多大な関心を抱いたからである。マンチェスターを基礎に置いて、マルクスは、資本主義と階級闘争についての分析をした。ディズレイリと同じくマルクスも、マンチェスターを予言的な都市と見たのだ。もっとも、マルクスは、威厳よりも、不吉な前兆を予知したのだが。

 ディズレイリやマルクスをはじめ、その時代の人々を引きつけたもの――彼らにマンチェスターがよかれ悪しかれ、その時代の都市の中で最も進歩した都市だと思わせたもの、それは、大規模な繊維工業の驚異的な能率性だった。マンチェスターは、まさに繊維工場だった。一八四〇年代まで、繊維産業がマンチェスターを完全に支配した。マンチェスターで、産業革命の意義が、その論理的な帰結に到達したと思われた。マンチェスターは、きたるべき姿だった。マンチェスターは、他のすべての都市を時代遅れ――産業の未開発な過去の遺物――にしてしまうような都市だった。

(中略)バーミンガムは、まさにマンチェスターによって時代遅れにさせられたたぐいの都市である。「バーミンガムの変わらぬ特徴は……」と、ブリッグズが引用した一八五〇年代のイギリスのあるジャーナリストは、次のように述べた。「ごく小規模な家内工業があった。その産業のおかげで、同居人が独立したし、商売がうまくいった場合、相当な資産や財産をもたらすことがよくあった」。これらの事業が失敗に終わることもよくあった、とブリッグズはつけ加えている。

 規模ではマンチェスターの産業と比べられなかったが、バーミンガムは、相対的に大規模な産業をいくつか持っていた。これらの産業は、バーミンガムの全産出高や総雇用のほんの一部を占めるに過ぎなかった。バーミンガムの大部分の製造業は、せいぜい一二人の労働者しか雇っていない、小さな組織の手で行なわれた。それ以下の労働者で営まれていた組織が多かった。これらの小さい組織の多くは、他の小さい組織の仕事のために、部品を提供した。それらの組織は、合理的にも、効率的にも、統合されなかった。活動のむだ、仕事の重複、統合すれば確実に排除できるような重複が、はびこっていた。おまけに、有能な労働者たちは、バーミンガムの雇用主から永久にたもとをわかち、自力で事業を始め、バーミンガムの産業を分裂させていった。*9

 バーミンガムが一体何によって身を立てていたかを語るのは、少々厄介である。マンチェスターの経済の理解を容易にし、鮮明な印象を与えたような、はっきりした特産品を、バーミンガムが持たなかったからである。当時の――きょうでも――バーミンガムの経済を詳しく述べようとすることは、容易な仕事ではない。バーミンガムの経済は、はんぱ物のごった煮だったのだ。その昔は、馬のくらや引具の製造が主な産業だったらしい。しかし、他のあらゆる金具類や道具類の製造が、くらや引具向けの金具製造に追加された。一七世紀と一八世紀に、くつの尾錠(びじょう)の製造が繁盛したが、くつひもの出現で終止符を打った。ボタンの製造業の発展が、その損失を償うに余りある役割を果たした。ボタン製造業の中に、ガラスの飾りつけをする者も現れ、色つきガラスの製造者に発展の機会を与えた。彼らは、これを足場に、相当な規模を誇る地元のガラス産業に育った。一九世紀のバーミンガムは、なかでも銃、宝石、安い金属製のおもちゃ、紙型のおぼんを作った。安い金属製のおもちゃの製造は、安い鉄のペン先の生産を引き起こした。銃の製造によって、ネジ溝切りの機械や他の工作機械を作る好機がもたらされた。

 これらのすべてはもちろん、一八四〇年代から一八五〇年代のイギリスが、どの都市でもお目にかかれたような流行遅れな代物の寄せ集めに過ぎなかったことを示している。それらは、近代的なものではなかった。新時代を表現するものでもなかった。驚くべき意味でも、大きさでも、新しいはしりは特に示唆しなかった。すべての知識人がマンチェスターに熱を上げていた当時、未来を告げる都市としてバーミンガムをあげる人は一人としていなかった。しかし、後になってわかったことだが、未来を告げる都市は、マンチェスターではなくて、バーミンガムだったのである。

 能率的専門化というマンチェスターの特色は、停滞と都市の根深い荒廃を告げるものだった(→動画*10)。というのは、「無限の広がり」の中身は、他の土地の人々が、能率の良い、綿の紡ぎ方と織り方を習得するにつれて、失う市場もまた大きい、ということが明らかになったからである。その失われた市場を償うのに必要なものを、マンチェスターは何も開発しなかった。今日のマンチェスターは、長期的な回復不能の沈滞に悩んでいる都市の象徴とさえなっている。幾時代、幾世代にもわたって、若い人々がより大きな機会を求めて、ロンドンやバーミンガムや海外の都市に移住しなかったなら、マンチェスターの惰性と失業、マンチェスターの住民の因苦は、今日の現実よりも、さらに深刻なものになっていただろう。マンチェスターの経済と違って、バーミンガムの経済は荒廃しなかった。バーミンガムでは、分裂して非能率な、規模の小さい産業が、新しい仕事を追加し続け、さらに分裂して新しい組織を設立し続けた。そのいくつかは、非常に大規模に成長しているが、全体の雇用と生産の中で、数多い小規模産業の占める比重が、いまだに高い。

 今日のイギリスでは、二つの都市だけが、経済的な活力にあふれ、繁栄している。そのひとつがロンドン(→動画*11)であり、もうひとつはバーミンガムだ。他の都市は、マンチェスターと同じように、ひとつひとつ、停滞に陥っていった。まるで、たくさんの灯が消えていくかのように。イギリスの都市計画の立案者たちは、皮肉にも、ロンドンやバーミンガムを問題のある都市とみた。両都市では、古い仕事に多くの新しい仕事が追加され、成長を続けているからである。イギリスのニュータウン政策*12は、ロンドンやバーミンガムの成長をはばみ、「排除」することを主にねらったものだった。バーミンガムの経済は、いまも生き生きとしているし、時代に即応している。しかし、マンチェスターは、そうではない。当時のマンチェスターは、本当に能率的だったのか? マンチェスターは実に能率的であった。バーミンガムは能率的ではなかった。マンチェスターは、「会社の町」の能率性を保っていたのだ。しかしバーミンガムは、それと異なった何かを堅持してきた。何かとは、開発的な仕事*13の占める比率が高かったことである。

予想外に引用が長くなった(汗)。ジェイコブズの本ほど一部だけを取り出して引用するという事が難しい本はない(ワラ)。一応、上記が書かれたのは1960年代で、ウィキペディアの「マンチェスター」の項によると、マンチェスターは「1980年代、地方自治推進政策や産業構造転換により街は徐々に息を吹き返し、金融機関や新聞社・テレビ局などのメディア企業、学術機関、研究所などが立地するようになり人口は2000年前後にようやく下げ止まり、増加に転じた。現在では(中略)バーミンガムなどと並んで2位、3位あたりを争うと言われている。」との事です。また、上記の本(「都市の原理」)では、アメリカのデトロイトピッツバーグ等も「長期的な回復不能の沈滞に悩んでいる都市」として扱われているのだけど、後者に関しては、ウィキペディアの「ピッツバーグ」の項によると、「かつては鉄鋼生産の中心地として栄えた。しかし1980年代中盤に安価な輸入鉄鋼に押される形で地域の鉄鋼業が衰退し、地域経済が大きな打撃を受けると、その後はハイテク産業をはじめ、保健、教育、金融を中心とした産業構造に転換し、地域経済を再生させた。(中略)経済危機の最中にあっても、ピッツバーグの住宅市場は比較的安定し、2008年に入ってもピッツバーグにおける求人は増加していた。こうした再生の成功は、バラク・オバマが2009年9月に開催された第3回20か国・地域首脳会合の開催地としてピッツバーグを選んだ要素となった。」との事です。また、前述の「himaginaryの日記」の「都市の産業が偏るのは良くないのか?」(2012年4月24日)のブログ記事から更に引用すると、エドワード・グレーザーの実証分析の結果によると、「産業の多様化」は、「統計的に有意で経済的にも意味があるものの、他の要因に比べさほど重要度が高いわけではない。例えば1980年時点の大卒人口比率が10%高いと、1980-2010年の人口成長は18%高まり、1980-2000年の所得成長は8%高まる。従って、産業の多様化よりも学校教育の方が重要。」との事です。21世紀の都市計画では、「教育」の環境の充実が最重要課題となるのかも知れません。関連して、「マンハッタンにサイエンス島ができそうだ!」(ギズモード・ジャパン、2011年12月27日)を参照。「スケールアウト型イノベーションが日本の地域を救う」(ダイヤモンド・オンライン、2012年5月25日)*14の「アイスランドにみる再生の10ヵ条」も参照。以上です。*15

 

では次。上記の都市経済学者のエドワード・グレーザー(Edward Glaeser)について、もぞもぞと(ネットで)少し調べてみたのだけど、「R氏の3R・イン・Paris」のブログの「「Triumph of the City」と「The Future of Power」を読みました」(2012年1月15日)の記事から少し引用すると、エドワード・グレーザーの著書「Triumph of the City」(2011年)では、「政府のなすべきことは、都市への人口流入を防ぐことではなく、社会的インフラを整備し、衛生環境を向上させることとしています。」、「人口流入を各種制度で幾ら制限しても人は都市に集まってきますし、そうした人々にチャンスを与えず、社会的インフラの不足を解決しない方が間違っている、と説きます。」、「人口流入や新たな住宅建設・インフラ整備を妨げるような規制はなくして、都市の空間を三次元的に使い切るべき、とも主張しています。」等々との事です。うーん、前に(僕の)別ブログの「Coffee & TV」の記事で、「人に合わせて公共サービスを行うべきで、公共サービスに合わせて人が暮らすのはおかしい」と書いたのだけど、それと似た考え方でもあるのかも知れません。でも、東京の場合は、前回の「東京は最大都市規模を超過しているのか」の記事で書いたように、人跡未踏の領域に突入している(東京は人類史上初の最大都市規模を超過する都市になる可能性がある)ので、この考え方が当てはめられるかどうかは知りませんw。時間があれば、エドワード・グレーザーのこの本(英語だw)を読んでみようと思います。とても面白そうです。

(追記。今後の東京がやるべき都市計画に関しては、前に書いています。本ブログの「2020年の東京」の記事参照(「日本の国(政府)の施設(首都機能)を、東京から追い出せばいいのです(!)。」))

ついでに、「「実際に会う」ことの重要性:研究結果」(WIRED、2011年2月17日)の記事から少し引用すると、「ハーバード大学の経済学者Edward Glaeser氏は新著『Triumph of the City』(都市の勝利)において、グローバルな情報ネットワークの時代であるにもかかわらず、実際の都市がより重要になってきていると主張している*16。なぜなら人間は、物理的に一緒にいるときに最もうまくコミュニケーションがとれるからだ。」、「ミシガン大学の2人の研究者は、被験者のグループを集めて(中略)、互いの協力を要する難度の高い協力ゲームを行なわせた。(中略)その結果、直接顔を合わせたグループは好成績を収めたのに対し、電子的にやり取りしたグループはまとまりに欠け、成績が振るわなかった。」、「ハーバード医学大学院の研究者Isaac Kohane氏は、(中略)研究者同士の物理的な近さが科学研究のクオリティに及ぼす影響を調べた。(中略)データを分析した結果、執筆者間の物理的な距離と論文のクオリティとの相関関係が明らかになった。共同執筆者間の距離が近い場合、論文のクオリティ(中略)は有意に高い傾向にあったのだ。」、「都市は人々の力を拡大すると、Glaeser氏は主張する。人が密集した環境では、アイディアがすばやく拡散しやすいためだ。グローバルな市場で競争したい人にとっては、都市の中心部近くにいることが大いに役立つ。」等々との事です。あと、この記事の原文(英語)の「The Importance Of Physical Space」(WIRED、2011年2月10日)には、「Somewhere, Jane Jacobs is smiling.」と書いてありますw。以上です。

では最後に、上記を踏まえて、今回の記事タイトルの「未来の巨大都市に住む人々の暮らしはどうなっているのか」についてです。ジェイン・ジェイコブズ著「都市の原理」の第8章(最終章)「将来の発展のパターン」から引用(メモ書き)します。この本の(「付録」を除いて)一番最後のところです。グランド・フィナーレです。(P.290-291)

 人間の歴史を振返ってみると、大部分の時代、大部分の土地で、大部分の人々が、沈滞し切った経済の中でみじめな生活をしてきた。発展する経済は例外的なものであって、経済が発展したとしても、その歴史は短期間に過ぎなかった。いまや、いろんな土地で、私が本書で述べた過程を通って*17、都市が著しい成長を遂げ、それから権力を握るようになった人々のために、沈滞へ転がり込んでいる。空飛ぶ円盤が太陽系の他の星から、地球上の問題に深く介入する生物を運んでくる、などという話を私は信じてはいない。しかし、そんな生物が驚くほど進歩した発明品を携えて地球にやってきても、われわれはきっとその技術を習得しようとするだろう。重要な問題は、こんな話とは全く別のものだ。経済的、技術的な開発を締出すのではなくて、それらに門戸を開放し成功に導いた政府を、その生物がどうして発見したか、ということだ。他の星からありがたい助言を受けるまでもなく、この問題は最も緊急でありながら最も注目されていない問題である。

 地球上のある人々が経済的な発展に身をゆだね、革新をはかり続けるならば、将来の都市ではきっと次のような事態が起るだろう。都市は、今日の都市に比べて規模は小さくならないし、単純化もされず、専門化もしないだろう。むしろ、今日の都市よりも複雑になり、より包容力を持ち、より多彩で規模も大きなものになろう。そして、未来の都市は、今日の都市に比べて、古いものと新しいものをより複雑に混在させることになる。今日の都市計画の立案者や設計者たちが描き、科学小説やユートピア的な提案を読む人たちが考えているような、官僚化され、単純化された都市は、都市の成長とその経済的な発展の過程に逆行するものだ。それは、はかない虚構として描かれたとしても、画一性とか単調さは、発展を続け経済的にも活力にあふれた都市の帰結ではない。それらは、沈滞し切った経済がもたらす帰結だ。未来の生活は今日よりも単純化され、労働もほとんど注目されないほどきまりきったものになるという見方は、ある人たちにとっては浮き浮きするほど楽しいことかもしれない。また、ある人たちにとっては、憂うつなことでもあろう。しかし、こんなことは問題ではない。そのような展望は、発展を続け影響力を持つ未来の経済とは、筋違いの見方だからだ。高度に発達した未来の経済では、なすべき仕事の種類が今日よりも多くなり、少なくなることは決してない。未来の巨大都市や成長都市に住む人々は、経済的な試行錯誤という変化の多い仕事に携わらなければならなくなるだろう。彼らは、今日のわれわれには想像できないほどの火急な問題に直面することになろう。そして、彼らは古い仕事に新しい仕事を追加していく*18ことになろう。

以上です。今回の記事は、やや駆け足気味の「メモ書き」でした(ドタバタ…)。ま、かえって、無駄に長い記事になってしまったような気もするけどw、これからよく考えて、そのうちキリッとまとめます(ほんとか?w)。ではまた。

(追記。下記の「追記(2012/6/3)」の記事参照。)

*1:(僕の)別ブログの「Natural World-2」、「フロリダ」、「明日の田園都市-2」の記事参照(アルフレッド・マーシャル

*2:(僕の)別ブログの「十九世紀の罠」の記事参照(ケネス・アロー

*3:(僕の)別ブログの「Edge City」、「Googleplex & iSpaceship」の記事参照(シリコンバレー

*4:(僕の)別ブログの「都市の原理」、「都市の非能率性と非実用性」、本ブログの「TPPの賛否」注釈3、「Googleの自動運転カー」の記事参照(ジェイン・ジェイコブズ著「都市の原理」)

*5:(僕の)別ブログの「闘うレヴィ=ストロース」追記の記事参照(「「多様性」の日本語訳の問題」)

*6:本ブログの「アイコンの消失」(「デトロイトの廃墟ガチ異常」(ハムスター速報、2011年1月23日))、「8月のニュース-4」(「Detroit: Urban Renewal and the Great Recession」(ArchDaily、2011年8月30日))の記事参照(デトロイト)。ついでに、クリント・イーストウッド監督の映画「グラン・トリノ(Gran Torino)」(2008年、→動画)の舞台はデトロイト。「グラン・トリノ」はフォード車の名前です。

*7:(僕の)別ブログの「フロリダ」、「メモ-3」、「Star House (星型の家)」、「Googleplex & iSpaceship」、本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」、「Googleの自動運転カー」注釈2(「Why Young Americans Are Driving So Much Less Than Their Parents」(The Atlantic Cities、2012年4月10日))、「東京は最大都市規模を超過しているのか」注釈2の記事参照(リチャード・フロリダ)

*8:(僕の)別ブログの「十九世紀の罠」、「モリスの建築論」、「明日の田園都市-2」注釈5、「明日の田園都市-3」(「社会改革家ロバート・オーウェンの理想工業村「ニュー・ラナーク」」)の記事参照(カール・マルクス

*9:(僕の)別ブログの「都市の非能率性と非実用性」の記事参照(「(前略)鈴村は、この例証のために「鈴村―清野の過剰参入定理」というものを持ち出した。それは、(中略)市場に自由な参入を許すと、社会の利益の最大化が実現される企業数よりももっと多くの企業が市場に参入してしまうことを証明した定理である。つまり、「少なくとも数学的には」、自由競争によって自由な市場参入を許すと最適性がかえって損なわれる、ということはありうるのである。そのうえで鈴村は、「たとえ市場の効率性が損なわれる帰結になるとしても、自由を保障するために競争が容認される」と主張したのだ。」、小島寛之

*10:オアシス(Oasis)、「ザ・マスタープラン(The Masterplan)」(1998年)の動画。ちなみに、オアシスはマンチェスター出身のバンドです。ついでに、割とどうでもいいのだけどw、「AKB48に言及したノエル・ギャラガー、意図せず誤解を招く?」(livedoorニュース、2012年5月28日)と、「【実際に和訳して検証】元OASISのノエル・ギャラガーがタモさんやMステをディスった!? 大ウソ! 勘違いであることが判明したよ」(Pouch、2012年5月29日)を参照w。ちなみに、僕のブログでの名前の「ノエル」は、ノエル・ギャラガーからとっています。(僕の)別ブログの「ノエル」の記事参照(「僕はオアシス(Oasis)の大ファンだったりする」)。本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」注釈1の記事参照(AKB48

*11:ペット・ショップ・ボーイズ(Pet Shop Boys)、「ロンドン(London)」(2003年)の動画。ついでに、ペット・ショップ・ボーイズの「ウエスト・エンド・ガールズ(West End Girls)」(1984年)も参照(→動画)。一応、「ウエスト・エンド」とは、ロンドンのウェスト・エンドの事です。反対側にはイースト・エンドがあります。ウェスト・エンドは高級住宅街で、イースト・エンドはその反対です。この曲の歌詞には、「(※要請により歌詞削除)」とあるのだけど、ま、そういう意味です(どんなだ?w)。格差社会階級都市)を表している曲のようにも見えるけど、「West End town」(ウェスト・エンドの街)は「dead end world」(行き止まりの世界)と歌っています。意味が分かりません。本ブログの「廃県置藩――Abolition of the ken system」注釈4の記事参照(Pet Shop Boys

*12:前回の「東京は最大都市規模を超過しているのか」注釈6の記事参照(イギリスのニュータウン政策)

*13:本ブログの「TPPの賛否」注釈3の記事参照(「新しい仕事の開発」、ジェイン・ジェイコブズ

*14:スケールアウト型イノベーションが日本の地域を救う」(ダイヤモンド・オンライン、2012年5月25日)。少し引用すると、「(前略)起業家精神の育成と並んで、アイスランドが重視しているのはイノベーション教育だ。中でも重要視されているのは、一問一答の教科科目ではなく、生徒が自分たちで取り組む課題を発見し、解決に向けて試作する環境だ。最初から斬新なアイデアを出せ、というのではない。プロトタイピング(試作)にこそ、アイスランドの小学校は力を入れている。幼いころから試作と失敗を繰り返し、その中から新しいものを生み出すことを学ぶ意義は大きい。」との事です。関連して、茂木健一郎のツイートをまとめた「答えではなく、プロセスを教えるのが真の教育」(トゥギャッター、2012年5月27日)も参照

*15:前述の「himaginaryの日記」の「地産地消は環境に良くない」(2011年6月21日)のブログ記事も面白い。これも、原文は都市経済学者のエドワード・グレーザー(「Urban Farms and Energy Use」(Economist's View、2011年6月17日))なのだけど、このブログ記事から再び引用すると、「我々は、配送を縮減することによる環境へのベネフィットと、食物を必ずしも最適ではない栽培地で生育することによる環境へのコストを比較衡量する必要がある」、「環境問題に寄与したいならば、家庭菜園を作るよりはアパートの高層化を訴えた方が良い」等々との事です。この記事に関しては、またそのうち書きます(たぶん)。とりあえず、前に(僕の)別ブログの「100年後」の記事と、「For Tomorrow」の記事にそれっぽい何かを書いています(たぶんw)。

*16:(僕の)別ブログの「フロリダ」の記事参照(「(前略)おそらく最も有力な見解は、ニューエコノミーが唱える「地理は死んだ」という神話だろう。インターネットや近代的通信・交通網の発達により、もはや人々が共働するうえで同じ場所に「存在」する必要がなくなり、実際にそのような状況が来るという考えである。この「場所の終焉」説は、電報や電話、自動車や飛行機などの技術が登場するたびに唱えられてきた。ケビン・ケリーは、広く読まれている九八年の著書『ニューエコノミー勝者の条件』の中で、「ニューエコノミーは、場所ではなく新しい宇宙に存在している。時が経つにつれ、経済活動はますますこの新しい宇宙へ移動していく」と書いた。(中略)しかし、これほどあてにならない神話もない。人間が依然、密に集住しているのみならず、経済自体(中略)も、(中略)特定の場所に集中し続けている。」、リチャード・フロリダ)

*17:「私が本書で述べた過程」(ジェイン・ジェイコブズが著書「都市の原理」で述べた過程)を大まかに書くと、番号順に、「1.その都市は、より古い都市の中に、最初の輸出産業を受入れてくれる成長市場を見つける(未発育都市)」、「2.その仕事を輸出する者が出てくる。そしてその都市は、より多くの輸入品を手に入れるようになる」、「3.その都市が手に入れた輸入品の多くが、地元で生産された財貨やサービスで置換される(本ブログの「TPPの賛否」の記事参照(輸入代替))。この過程は、その都市に爆発的な成長をもたらす。それと同時に、その都市は輸入品の構成を変える。(中略)その地元経済は巨大になり、多彩になる」、「4.その都市の地元産業がきわめて巨大になり多彩になると、多種多様な輸出品を生み出す有力な発生地となる。しかし、これまで輸入していた都市がその輸出品を地元の生産で置換するようになるため、その都市は古い輸出品を失うようになるが、多くの新しい輸出品が、失われた輸出品を償う」、「5.その都市は新しい輸出品を生み、新しい輸入品を取得し続ける。こうした運動が持続する」(P.272-273)

*18:冒頭の都市経済学者のエドワード・グレーザーの「Wall Street Isn’t Enough」(City Journal、2012年春)の記事参照(「new ideas came from combining old ideas」)。関連して、(僕の)別ブログの「Star House (星型の家)」の記事参照(「私たち人間は、神ではない。私たちは無から何かをつくり出すことはできない。」、リチャード・フロリダ)。あと、(僕の)別ブログの「Sketchbook House (スケッチブックの家)」注釈10の記事参照(「何もないところから新しいシステムを考えようと思っても、機械的なシステムしか出てこない。」、ZUN