Picture Book House (絵本の家)

「Picture Book House」(絵本の家)です。以前、本ブログの「アイコンの消失」の記事で、「(前略)あの日以降、僕は「アイコン建築」を一つも描いていない。うーん。今、途中まで描いた「Picture Book House」(絵本の家)の画像ファイルを開きながら、とりあえず作業を続けて仕上げるか、未完成のままブログに載せるか、それとも止めちゃうかで、悩んでいるところです。」と書いたのだけど、先週、ぱっぱっと、色をつけて仕上げてみた。ま、と言っても、本当は、久々に(ドット絵を)描いたせいなのか、意外と時間がかかりました(ワラ)。これです(下図)。

一応、上図左の「絵本」は、絵本作家のディック・ブルーナの「ミッフィーのおうち」です(セピア色に変換した)。ちなみに、前に(僕の)別ブログの「Minimal」の記事と、「Airplane House」の記事で描いた「アイコン建築」でも同じ「絵本」を使っています。今回ので、三度目です。

では、解説します。

ま、見ての通りです(おいおいw)。と言うか、そのフォルダには「美しすぎる、折り紙で作った新しい発想の骨格模型!」(ギズモード・ジャパン、2011年3月4日)から着想を得たとメモ書きがしてあるのだけど、全く記憶にございません(ワラ)。半年以上も前の事なので、さすがに忘れました。ま、とは言っても、大まかな考え方は、前に(僕の)別ブログの「Sketchbook House」の記事で描いた「Sketchbook House」(スケッチブックの家)と同じです。「2次元から3次元へ」(→動画*1)です。両者は、よく似ていると思います。あと、今思うと、雰囲気(イメージ)は、オーストリア生まれのアーティストのアーウィン・ワーム(Erwin Wurm)の「narrow house」(2010年)の影響ではないかなと思います。短いけど、解説は以上です。

えーと。あと、フォルダには、前に(僕の)別ブログの「Star House-2」の記事で少し書いた「土星の家」の別の作成中の案もあるのだけど、これは前に本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」の記事で描いた「Valentine House」(バレンタインの家)の「ハート型アイコン」を「土星型」に置き換えただけなので、割愛しますw。僕が(パソコン上で)描いていた「アイコン建築」はこれで全部です*2。さて、前に本ブログの「アイコンの消失」の記事で、「建築論の方向性から再検討したほうがいいのかも知れないな」とも書いたのだけど、これから考えて行こうと思います(キリッ)。

と言うわけで、今は、田中純著「建築のエロティシズム―世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命」(2011年)を読んでいます。僕の目当ては、前に(僕の)別ブログの「ハイブリッド世界の本質」の記事で書いた建築家のアドルフ・ロース近代建築の父)です。ま、あと少しで読み終わるのだけど、この本のイントロダクションとして、冒頭の「はじめに」から少し引用すると、「本書の登場人物のひとり、建築家アドルフ・ロースは、ヴィーンの街を歩き回っては、「建築家は最大の犯罪者だ!」と口癖のようにつぶやいたという。「装飾と犯罪」は彼の代表的なエッセイである。本書は、このロースが生きた一九世紀末から二〇世紀初頭の世紀転換期ヴィーンをおもな舞台に、「装飾」がそこで担った意味の分析を通じて、近代建築のエロティシズムを考察する試みである。」、「建築を成り立たせているものは、物体であり空間であると同時に論理である。そして、性欲ではなくエロティシズムを生み出すのは、論理以外の何ものでもない。だから、建築のエロティシズムはその論理にこそ宿る。「近代建築のエロティシズム」とは、したがって、エロティシズムの近代的な論理と言い換えてもよい。」、「現代は凡庸な計画論が建築を深く浸食している時代である。建築家が社会学者がよろしく家族の未来像を語り、それを愚直に住居空間に翻訳してくれる。家族の空洞化にしろ何にしろ、社会学者が唱えるイデオロギー的なラジカリズムに追随するそんな計画論に、建築固有の論理もエロティシズムもない。」(P.7-9)です。うーん。*3

あと、その(僕の)別ブログの「ハイブリッド世界の本質」の記事で、「(前略)その一連の白い住宅の外観は、アドルフ・ロース自身が書いているように、20世紀の都市生活者(中略)の倫理と外見(ファッション)に由来している。」と書いたのだけど、これに関しては、「(前略)雑誌に発表されたロースのエッセイには、紳士服や婦人服の流行に始まり、紳士帽やズボンや靴、そして下着にまでいたる、さまざまな装いの分析が含まれていた。男の身だしなみを論じたエッセイ「紳士のモード」でロースは、服装に関して「重要なのは最も目立たないことである」と述べている。イギリス人やアメリカ人が「上手に」装うことを求めるのに対して、ドイツ人はさらに余計なことをする。ドイツ人は「美しく」装おうとしてしまう。だが、上手に装うことは美しさとは何の関係もない。上手に装うとは「正しく」装うことである。何に対して正しいのか。現代文化の中心であるロンドンの、最上流の社会において目立たないことこそが正しく装うことだ。そのような服装こそが「現代的(モダン)」なのである。」(P.43-44)です。ここから近代建築を特徴づける、あのプレーンな外観(という文化記号)が始まるのです。

でも、著者はこのプレーンな外観に「エロティシズム」を見い出すのです。著者はオーストリア精神分析学者のジークムント・フロイトの「自我・エス・超自我」の概念を援用して、「無装飾は決して禁欲ではなかった。」(P.108)、「「装飾と犯罪」でロースが社会的・経済的・文化的なさまざまな根拠を示しながら展開する装飾否定論は、装飾の使用を犯罪として裁く厳格な「法」の性格がひじょうに強い。(中略)しかしその一方で、(中略)「装飾と犯罪」は、一見したところフェティシズム批判でありながら、実はプレーンな表面をフェティッシュ(「仮面」)とするいっそう洗練されたフェティシズムの宣言だった。(中略)むしろ(中略)エロスの技法だったのである。ロースの戦略は二重である。」(P.113-114)と述べています。装飾を禁止する「法」が「超自我」です。そして、著者は「ロース自身は二重化された戦略をとり、(中略)しかし、彼が掲げてみせた装飾をめぐる「法」は、(中略)法律的ないし倫理的な断罪の宣言と解釈され、近代建築の「父」による法的規範と見なされるにいたってしまう。ロースの倒錯的なエロスの技法は学ばれることがなかったのである。」(P.116)と述べています。面白い。建築の「エロティシズム」の論理であった「二重性」が、ロースの後の近代建築では解(ほど)けてしまった、という事です。また更に、著者は「(前略)応用芸術家たちが一定の様式によって個室から都市空間までをトータルにデザインしようとしたのに対し、ロースは個室とその外部の峻別を求める(中略)。言ってみれば、ヴィーン工房のはデザイン・オタクとして、街全体をひとつの様式という「趣味」によって覆い尽くし、巨大な自分たちの「個室」にしようとしたわけである。(中略)ロースにとって、欲望丸出しのこうしたオタク・デザイナーたちは敵だった。」(P.79)、「ロースにとって(中略)最悪なのは、実用性と芸術を曖昧に総合しようとするヴィーン工房イデオロギーだった。」(P.180)とも述べています。あと、(第8章の)哲学者のルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン*4が設計した「ストンボロウ邸」(1928年)の分析も、とても面白い。そのうち書きます(ほんとか?w)。以上です。では。

アドルフ・ロースの初期の代表作「カルマの館(業の館)」(「Villa Karma」、1903年)の写真。左は外観、右は2階の浴室。)

【追記】


*1:a-ha、「Take On Me」(1985年)の動画。(僕の)別ブログの「Sketchbook House」注釈7の記事参照。ついでに、Breakbotの「Fantasy feat. Ruckazoid」(2011年)のPVも参照(→動画)。「ヌードデッサン中に美術男子が妄想爆発」(Yahoo! 映像トピックス、2011年8月10日)より。最後の「オチ」が少し面白い。前回の「鉄道の未来学――2011年の鉄道とその未来」の記事も参照(比喩としての「拡張現実」)。あと、割とどうでもいいけどw、アンサイクロペディアの「2.5次元」の項も参照。

*2:本ブログの「作品一覧」の記事参照

*3:(僕の)別ブログの「雑記&まとめ」、本ブログの「アイコンの消失」注釈5の記事参照(「感性の「構造」」)。(僕の)別ブログの「アイコンに擬態」の記事参照(「「アイコン建築」は「モダニズムの正当かつ批判的な後継者」」)

*4:本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」注釈5の記事参照(ヴィトゲンシュタイン