丹下健三「建築と都市」――機能主義の限界

ドタバタしております(汗)。師走です。ますます、寒いです。ところで、「11月20日付 編集手帳」(読売新聞、2011年11月20日)によると、「「コタツ」は、意外に外国でも知られているらしい。日本の漫画やアニメの冬のシーンに登場するため、海外ファンの興味を引くのだろう。」との事ですw。

さて、佐藤主光著「地方税改革の経済学」(2011年)を買った。ははっ。これ本当に僕は読むのか(おいおいw)。お堅い本で、しかも分厚い(約3センチ厚)。えーと。この本を買うに至ったきっかけは、確か、池田信夫著「もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら」(2011年)を読んで、経済学者のミルトン・フリードマンが著書「資本主義と自由」(1962年)で提案した「負の所得税*1」というアイデアを知って、とても面白いと思ったからだったと思います。複雑化した現代社会が直面している問題に対して、公平で簡素(で数学的)な解決策が提案されているという事に、僕は惹き付けられたんだと思います。それから、「税制」に関して、(ネットで)いろいろと調べているうちに、前に(僕の)別ブログの「メモ-3」の記事で、この動画(→動画*2)を載せて、「今の東京に必要なのは「土地税制の改革」なのであり、街に広場をつくるとかコミュニティをつくるとかの議論は、全く本質的ではない(パターナリズムである)のだ。」と書いた事や、(僕の)別ブログ「メモ-5」の記事で、「今後の東京に必要なのは都市(空間)のルールを変えること(「土地税制の改革」!)なのである。」と書いた事を思い出して、この本を買うに至ったというわけです(たぶん)。ま、とは言え、「土地税制」に関しては、僕は全く得意ではないのでw、とりあえず、興味がありそうなところ(固定資産税(土地)、不動産取得税、外形標準課税、等々)から、ぼちぼち読んでみようと思っています。(もちろん、僕はこの分野に深入りするつもりはありません。)

ちなみに、上記で「(ネットで)いろいろと調べているうちに」と書いたけど、調べてみた先は、ほとんど全部「ウィキペディア」です(ワラw)。読んでみた項は、「ヘンリー・ジョージ」、「ジョージズム」、「シルビオ・ゲゼル」です。「ヘンリー・ジョージ」は、「進歩と貧困」(1879年)の著者で、社会改良家のエベネザー・ハワードに影響を与えた政治経済学者です(詳しい事は、(僕の)別ブログの「メモ-3」の記事の注釈2に書いてあるので、興味がある方は、是非、読んでみてください)。次の「ジョージズム」は、「アメリカの政治経済学者ヘンリー・ジョージ (1839年 - 1897年)に因んで名づけられた経済学及び哲学説の一。土地課税を柱とする思想で」、「地価税が他の税とは異なり極端に効率が良く、生産性を損ねるものでもないとされ、1976年にノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンも、ジョージの掲げる地価税が経済に対する過度の負担(つまり「死荷重」)を生むことがないとしている。」との事です。また、「中国におけるドイツの膠州湾租借地でも、領内で徴収した6%の地価税を唯一の収入源とするジョージズム的政策が採られた。」との事です。そして、最後の「シルビオ・ゲゼル」は、「ジョージズム」の影響を受けたドイツの実業家・経済学者で、「ある程度以上の資産家が金利生活者としてのらりくらり生きている現状を問題視し」、「ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』においてゲゼルの思想について考察し、「将来の人々はマルクスの精神よりもゲゼルの精神からより多くのものを学ぶであろうと私は信ずる」と評している。」との事です。また、シルビオ・ゲゼルの著書「自然的経済秩序」(1916年)は、ここで読む事ができます(僕は未読です)。とりあえず、以上です。

では、本題。
前回の「体制維新――大阪都」の記事で少し書いた、丹下健三著「建築と都市―デザインおぼえがき」(復刻版、2011年)を結局、買って、途中まで読んだw。前回の記事で書いた、この時代(1960年前後)の「機能主義から構造主義へ」の流れは、丹下健三のこの本によると、「スミス的認識からケインズ的認識への変革」(P.35)との事です。

では、この本の第2章から少し引用しておく(メモ書き)。念のため、この本の初版は1970年なのだけど、第2章が書かれたのは「1961年」です。

第2章「機能と構造」

■「1 現代の歴史的位相」

(前略)経済の発展は、企業における生産の極大、利潤の極大という目標にむかった企業家精神と資本家的活動によって演ぜられる。資本形成――建設投資と機械設備投資――は、国民総生産の一〇%から漸次二〇%に及ぶようになる。生産性は持続的に上昇する。そうした私企業の自由な目的極大化への追求が、「見えざる手の導き」によって国民経済の調和ある繁栄をもたらすというアダム‐スミス的信条が支配している。(P.28-29)

上記の「見えざる手の導き」に関しては、(僕の)別ブログの「レッセフェールの教訓」、「マンハッタンのゆくえ (後)」の記事参照。

 企業の単位は、この生産と生産手段、あるいは目的と手段とのあいだの機能関係が成り立つ一つの系であり、また機能単位であった。そうしてそれぞれの系は独立に、自己の目的を極大に充足することを目ざして、ひたむきな活動を続けてきたし、また続けつつある。しかし、それぞれに独立した系と系のあいだの均衡、あるいは系が国民経済とかかわりあう仕方については、ほとんど考慮が払われてはいなかった。「見えざる手の導き」によって、私企業の生産極大化への追求は、国民経済の繁栄をもたらすというスミス的世界観にささえられていたからである。そこには、個人の自由は全体の秩序をもたらすという自由主義思想がみなぎっていたのである。

 これこそ建築・都市において、機能主義が生育する実り豊かな土壌であった。(中略)「住居は住むための機械である」というコルビュジエの有名な言葉は、このことをもっとも明確に示している。
 だからといって、機能主義の建築がすべてこうした厳密な意味での機能主義であったと、いおうとしているのではない。機能主義が厳密な意味で適用されうるところは、特定の「目的―手段」のあいだの機能関係が成り立つ系の内部においてである。しかし建築には機能関係の成り立たない多くの領域がふくまれている。(中略)系の外部については、まだ深く意識されていなかったということが、現代建築の第一期における機能主義であったと考えてよいだろう。(P.29-30)

建築家のル・コルビュジエは、著書「建築をめざして」(1923年)で、「今日では、問題が提起されれば、宿命的に解答が見出される。」と述べている。(僕の)別ブログの「写真銃-3」の記事参照(同文)。

 機能主義がその初期の時期から、しばしば受けてきた批判は、こういうものであった。「建築は機械ではない。物質的機能の充足だけでは足りない。そこには人間の先進的、感性的、心理的充足がなければならない。」 しかしこれはまだ本質的な批判ではない。
 機能主義の「目的―手段」の系において、その目的の位置に、精神的、感性的側面を加えておけば、その範囲においては、機能関係は程度の差こそあれ十分成り立つからである。(中略)多くの場合こうした批判は、建築を再び装飾主義へおとし入れるという消極的役割しか果たさなかったのである。(P.30)

 私は機能主義に対して、こうした消極的批判をするまえに、それが果たした革命的役割を評価しておかねばならないと考えている。建築の機能主義は、社会が離陸から成熟に向かって前進しつつあった諸国あるいはしつつある諸地域において、旺盛な企業家精神が果たした役割と歩調をともにしながら、近代的生産技術の発展と、そこからくる物的、社会的条件を基礎とし、それを反映する建築を創り出すことに成功したのである。(中略)これらの成果は、今後もますます拡大されてゆくであろう。それにもかかわらず、私がここで機能主義の限界についてふれようとしているのは、機能主義を否定するためにではなく、機能主義を補充する新しい思想と方法が必要になってきていることを示したいがためである。「目的―手段」のあいだの機能関係は、一つの機能単位、あるいは系を前提としなければならない。ある特定の目的――あるいは諸目的の比重関係がすでに決定されている複合的目的――が設定されるときには、それを充足する手段――あるいは諸手段――の目的に対する機能関係は、科学的に、合理的にあきらかにされうるし、それを実現する方法を探求することもできる。そうして、それを建築像にもたらすことが可能である。この関係はとくに生産機能においてもっとも明確である。しかし軍艦のようなものになるとそれほど明確ではなくなってくる。走行・攻撃・防御という矛盾しあう目的に対して、どういう比重を決定するかという目的設定の問題がでてくるからである。目的設定が終われば、あとは「目的―手段」の機能関係が成り立ち、機能主義的設計は完遂されるとしても、その前の目的設定の領域では機能主義は同じ厳密さでは適用されない。(中略)機能関係は明確さを欠くことになるだろう。

 この関係は建築の場合、さらに複雑である。(中略)不特定多数の要求にこたえる住居、あるいは公共建築の場合、その目的設定はさほど簡単ではない。ここでは、建築家はなにがしかの目的意識をもつことが要求されるし、態度決定あるいは世界観の決定にまで追いこまれるのである。そこではもはや機能関係という救いの手は存在していない。
(中略)都市の水準で考える場合、この目的設定はさらに困難な問題をもっている。そればかりか「目的―手段」の機能関係自身、さらに大きな限界にぶつかるものである。(P.31-34)

■「2 現代の一般的状況」

 いま、世界の幾つかの地域では、経済は成熟期を終え新しい段階を迎えている。この局面ではアメリカはもっともぬきんでており、西ヨーロッパ諸国がそれに続いている。日本はその段階へ模索をつづけており、ソ連もこれに対して希望をよせている。
 社会が成熟期に達したところでは、(中略)重点は生産から消費へ、供給から需要に移り、産業の主導部門も耐久消費財サービスに向かって移ってゆく。(中略)ロストウはこの段階を高度大量消費時代とよんでいる。
 この段階を迎えて、経済の認識にも大きな変革があらわれた。スミス的認識からケインズ的認識への変革である。
 需要――消費と投資――は供給を決定するというJ‐M‐ケインズ有効需要の理論は、国民経済にしめる消費の役割の重要性を示したものとして、ロストウの高度大量消費時代の前ぶれであった。

(中略)それにも増して彼(ケインズ)の功績は、国民経済をスミスの「見えざる手の導き」から「目に見える構造」として捉えることを可能にしたということである。国民経済の構造と循環は目に見える数字となった。ある電子工学者はこの複雑な国民経済組織とその連動を、電気的フィードバックの回路とのアナログとして解析しうることを明らかにした。そうして国民経済は制御と予期の対象となりうるものとなったのである。アメリカの経済学者ガルブレイスは、この経済の構造と運動の視覚化と計数化の果たした威力は、原子爆弾の力よりも偉大であったと語っている。
 これは国民経済を高度に組織化する道をひらいたともいえるだろう。そうして、これはまた組織の時代の一つの断面を象徴しているともいえるだろう。と同時に国民経済の安定を仲介するものとして、政府の役割を再び重要なものにしたのである。(P.35-36)

経済学者のケインズに関しては、前々回の「ケインズvsハイエク」の記事参照(→動画動画)。念のため、経済学者のハイエクが著書「自由の条件」を発表したのは1960年です。ついでに、ウィキペディアの「自由の条件」の項によると、ハイエクは「アダム・スミスに由来する自由主義の政治理論を現代において確立することを目指していた。」との事です。また、上記の「政府の役割」に関しては、「飛行機も電車も車も船も全て担う、超壮大なテムズ空港建設計画がすごい」(ギズモード・ジャパン、2011年11月7日)、「Foster + Partners Launch Proposals for Thames Hub」(Archdaily、2011年11月3日、→動画)、前回の「体制維新――大阪都」の記事参照。

 企業にとって、建設投資は生産を極大にする手段として機能主義的に考えられていた。そうして社会は、(中略)その総生産を大きく成長させた。また一人当りの生産性を上昇させた。(中略)しかし、(中略)放任されてきた企業の建設投資で巨大化すればするほど、社会的間接資本の不足が累積的に、加速度的に深まっていった。
 都市の無秩序な発展、そこからくる混乱と麻痺は、生産基盤としての都市ばかりでなく生活環境としての都市の致命的欠陥となってきた。そうしてついに企業投資の生産効果そのものをおびやかすものとなった。スミスの「見えざる手の導き」にたいする信念は幻影となったのである。この段階で、国民経済の繁栄は、単なる企業的枠組における生産の極大化においてではなく、経済の組織的活動と動態的均衡において、つまり安定と成長において達成されるという新しい認識が必要になってきたのである。ケインズの重要が供給を決定するという有効需要の理論はこうした背景のなかから生まれたものといえるだろう。(P.37-38)

(前略)建設における政府の役割、公共投資が二重の意味をおびて重要なものとなってきた。一つは私的、企業的投資がつくり出す生産施設と生活環境に対する社会的基礎構造、インフラ‐ストラクチュアとしての役割であって、企業投資と公共投資の均衡の必要が認識されてきたのである。もう一つは、建設事業に投入される有効需要――生産財の重要――と、建設事業による雇用がもたらす有効需要――消費財の需要――が、国民経済に果たす役割が認識され、公共投資が、国民経済を成長と安定に導くものとして重視されはじめたということである。
 アメリカのTVA開発の建設事業はこの認識の輝かしい成果であった。

(中略)このような公共投資による社会的間接資本の充実が一方ではますますその重要性をおびて現れつつある。と同時に、企業の建設活動――個人の建築、住宅をも含めて――もますます盛んになりつつある。都心地区のオフィスビルの大量の建設、工場の大規模な建設、郊外住宅地の放任された発展などが現れている。それらはいぜんとして都市の混乱を助長し、生産基盤を弱体化し、生活環境を悪化する方向に行われている。こうした建設の時代にはいって、世界はまだ建築、都市の建設に秩序ある構造と、均衡のある発展をもたらす新しい思想と方法を見いだしてはいない。(P.38-39)

 日本はこの戦後、その経済を急速に成長させた。(中略)世界最高の投資率をもっている。しかし企業投資の旺盛さに比べて、公共投資の占める比率は相対的に低下し、社会的間接資本の不足はますます顕著となり、とくに大都市地域の混乱と麻痺は収拾のつかない段階に達している。ここで生産基盤としての社会資本において以上に、生活環境に対する社会資本の絶対的不足は目にあまるものがある。(中略)この状況のなかで、建設の時代にふさわしい建築、都市に対する思想と方法の必要が痛感されているのである。

(中略)一方では莫大な建設が行なわれて、人間の生活環境を急速なスピードで成長させつつある。そのスピードは、国民総生産の成長と投資率の相乗として加速度的である。都市の構造も急速に、また大きく変身――メタモルフォーゼ――してゆくであろう。
 一方では、はげしい消費と消滅は刻々、日々の生活環境の新陳代謝――メタボリズム――させつつあるといえよう。

 まさに生活環境はダイナミックな成長と変化の時代にはいったといってよい。(P.39-40)

上記に関しては、えーと、(僕の)別ブログの「ファスト新宿」(→動画)、「イオンレイクタウン-3」(「都市(都市圏)全体を一つの「磁場」や「ベクトル場」として、ダイナミック(dynamic)に一挙に捉えなければならない。」)の記事参照。あと、「世界の都市はどのように変貌を遂げたか?世界25都市の風景写真ビフォア・アフター」(カラパイア、2011年3月2日)も参照。ついでに、「いつの間に人類は70億人に増えた?コップで解説(動画)」(ギズモード・ジャパン、2011年11月6日)も参照。

 建設における社会投資と私的投資、infra structure と element structure の均衡の問題は、資本ふり分けという経済的側面においては意識されるようになったというものの、まだそれをフィジカルなものに反映する方法として、私たちはうけとめてはいない。
 投資と消費、いいかえれば建設と消滅の激しい現代、成長と変化の動態的均衡も、まだ私たちの課題として十分、うけとってはいない。
 開かれた社会組織「大都市地域」における人間関係――個人は自発的な選択的行動を最大限に発揮しようとしている、しかも、その個人の自由で流動的な結合関係が、一つの組織を形成してゆく、逆にいえば個人と組織とは双方からの結合関係を刺激し、また規制しあっている――という関係は、まだ十分に、私たちのフィジカルな環境に反映されてはいない。このような相互関連を成り立たせる技術的基盤はコミュニケーションにあるが、しかしまだ、私たちはコミュニケーションを現代社会組織のフィジカルな構造として、また空間の組織として、うけとめてはいない。

(中略)これを構造づけ、あるいは組織づけとよぶことができるとすれば、その方法を探求してゆくことこそ、現代の建築・都市設計において、もっとも重要な課題であるといえるだろう。しかし、この探求はすでに、機能主義の限界をこえた領域のことがらである。ここでは、一つの機能単位と他の機能単位との間にはなんら機能関係が存在していないのである。それらは、それぞれに独立の系であり、独立に自由な運動をしている。(中略)そこにあるのは動態的な構造的関係なのである。こうした構造的関係を明らかにし、さらにその新しい構造関連をつくり出してゆくことこそ、私たちの主要な課題となってきたのである。私は、抽象的ではあるが、こう考えている。「機能概念と機能づけという機能主義の思想と方法をうちに含みながら、それを補完し、それに外包するような構造概念と組織概念、それにもとづく構造づけと組織づけという新たな構造主義の思想と方法が現在、必要な状況になっている」と。(P.43-44)

上記の「選択的行動を最大限に」に関しては、(僕の)別ブログの「東日本大震災からの復興とポストモダン」、「Integral Project-3」の記事参照(「ポストモダン公準」)。

以上です。

ま、この後、「3 機能主義から構造主義へ」、「4 空間と象徴」、「5 機能・構造・象徴」、とまだまだ続くのだけどw、そのうち書きます(たぶん)。とりあえず、「3」に関しては、(僕の)別ブログの「機能から構造へ」、「機能から構造へ-2」、「機能から構造へ-3」の記事参照。「4」と「5」(と第1章「内部機能と外部機能」の「ピロティ空間」について)の、空間の「象徴(シンボル)」に関しては、僕の「アイコン建築」論と関連付けて、何か書けるかも知れない*3。そのうち書きます(たぶんw)。あと、その他の章のタイトルだけ書いておくと、第3章「日本列島の将来像」、第4章「東京計画一九六〇――その構造改革の提案」、第5章「空間都市と人工土地――都市・交通・建築の有機的統一」、第6章「現代都市と人間性――現代都市における人間性豊かな空間秩序の回復」、第7章「設計の経験」、です。これから読みます(ほんとですw)。ま、いずれにせよ、「土地税制」のあり方も含めて、「変化」の時こそ、「基本」を確認しなければならない(→動画*4)。ではまた(ドタバタ)w。

【追記】

   

*1:負の所得税」とは何か。「フリードマンの考えていた税制改革はきわめてラディカルで、公的年金の他に法人税も廃止し、所得税累進課税もやめて税率を一律にし、所得分配を負の所得税に一本化するというものだ。生活保護は、所得のない人には支給されるが、少しでも所得があると支給されない。日本のように生活保護の支給額が最低賃金より高いと、働かないほうが得になってしまう。このようなモラルハザードを防ぐためには、所得税の給付という形で所得を再分配することが合理的だ。(中略)年金のように所得に関係なく年齢によって再分配する制度は不公正であり、農業補助金のように職業で再分配するのも、地方交付税のように地域で再分配するのもおかしい。貧しい人の生活を支えるという目的のためには、社会福祉はすべて所得を基準にして税でやればよく、厚生労働省は廃止してもいい。そしてこれが、どこの国でも(本来の意味での)負の所得税が実現しない理由である。どこの国でも政府支出の最大の部分を占めているのは社会保障支出で、これを廃止したら大量の官僚が失業するばかりでなく、既得権をもつ高齢者などが強く反対するからだ。『もしフリ』に描いたフリードマンの提案がすべて実現する日は、おそらく永遠に来ないだろう。それは彼が正しくないからではなく、あまりにも合理的で、政治的な既得権を破壊するからなのだ。この意味で、残念ながら『資本主義と自由』は永遠に新しい古典である。」(池田信夫著「もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら」(2011年)、「解説:『資本主義と自由』は永遠に新しい」より。P.226-227)。文中の「モラルハザード」とは「逆進性」の事です。本ブログの「8月のニュース-3」の記事参照(「逆進性」)。ついでに、前に本ブログの「永久公債、国有不動産」の記事で、「永久公債」について書いたのだけど、池田信夫のこの本によると、国債の返済を延期すると、「日本国債の取引は全面的に止まって、かつてのロシア国債のように紙切れ同然になります。あのときルーブルの為替レートは6分の1になりました。円でいうと、1ドル=1000円以上になるということです。石油も食糧も輸入できなくなるでしょう。」(P.63)との事です。また、本ブログの「鉄道の未来学――幹線の鉄道の未来」注釈2の記事で、「「国債、地方債」を返済するために「大規模な増税」をすると、「国債、地方債の保有者」までも「損をする」」と書いたのだけど、これは、「(前略)邦銀は社会に奉仕するために国債を買ったわけじゃない。ゼロ金利でリスクなしで利鞘が取れると思ったから国債を200兆円も買ったのですよ。財政は永遠に大丈夫だという無謀な賭けに負けただけです。」(P.156)との事のようです。ま、経済学の難しい話はよく分かりませんw。ところで、調べてみると、「明治維新」では、政府は借金の国家的「踏み倒し」を行っている。「明治維新」の本質はそこにあるのかも知れない(おいおいw)。

*2:異常な鼎談 ひろゆき 後編3/3」(2009年11月5日放送)の動画。(僕の)別ブログの「Googleplex & iSpaceship」注釈13の記事参照(ひろゆき

*3:本ブログの「Valentine House (バレンタインの家)」注釈5(「記号論理」)、「アイコンの消失」(「アイコン建築」)、「Picture Book House (絵本の家)」(「文化記号」)の記事参照

*4:岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(「もしドラ」、2009年)の動画。(この本は未読)