【お知らせ】同人雑誌「ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学」に寄稿しました

(追記(2013/4/8)あり)
(追記(2013/4/11)あり)
(追記(2013/4/26)あり)
 
久々のブログ更新です。ご無沙汰しております。。

二か月ほどブログから離れてしまっていたわけですが、その間は全身全霊を込めて「建築論」を執筆してました(ほんとか?w)。

と言うのも、東北大学大学院有志で制作している建築雑誌『ねもは』の『ねもは5号』の『ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学』という同人雑誌に寄稿することになったからです。僕は『ニコちく』の制作部の方々とは全く面識はないのですが、僕のブログ「未発育都市」を読んで関心を持たれたとのことです。原稿の依頼のメールがあった時は喜んで快諾しました。こういう意外な変化球が飛んで来るのも「ネット」の魅力ではないかと思います。

この『ニコちく』は、来月に関西と東京で開催される「第十六回文学フリマin大阪」4月14日、堺市産業振興センター)と、「超文学フリマ4月28日、幕張メッセ) で販売されるとのことです。是非、お買い求め下さいませ。先程、『ニコちく』の制作部の方からメールで送って頂いていた拙稿のレイアウトの仕上がり(サンプル)を見たのですが、かなり本格的な作りになっています。驚きました。さすが建築学生とあって、デザインセンスは抜群です。でも、それ以上に「建築」と「ニコニコ動画」をハイブリッド化して論じるという雑誌のコンセプトが相当ぶっ飛んでいると思います。こういう前衛的で野心的な試みができるのも、自由度の高い同人雑誌ならではないかと思います。また、建築史的に見ても、1920年代にル・コルビュジエが創刊した『レスプリ・ヌーヴォー』誌も1960年代にイギリスの前衛建築家集団が創刊した『アーキグラム』誌も、どちらも同人雑誌であったわけです。そして、この2つの同人雑誌は「建築」の常識を完全にひっくり返してしまったのです。その影響力は絶大でした。そのような影響力を『ニコちく』に仄かに期待を込めつつ、ここに宣伝しておきます。いずれにせよ、僕の拙稿のことは嫌いでも『ニコちく』のことは嫌いにならないで下さい(どんなだ?w)。また、僕が全身全霊を込めて書いた拙稿よりも、それ以上に本気(マジ)で気合いの入った論文が『ニコちく』の制作部の元に続々と集まっているようです。MinecraftMMDを「建築」の創作ツールとして見た論文から、「たまこまーけっと」を建築的考察した「商店街」論まで、斬新な論文が目白押しです。ま、と言っても、僕は他の方々の論文はまだ読んでいませんけどw、これは買うしかないですね。皆さん買いましょう。

さて、僕(ノエル)が『ニコちく』に寄稿した論文のタイトルは、「形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして」です。

では、冒頭の書き出しの部分だけブログに載せます。(下記)

形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして

■ プロローグ

 僕の学生時代の話からはじめよう。僕が建築学科に入って二年目の設計製図の演習の課題で、ある女学生(乙女チック)が「集合住宅」の図面一式とスチレンボードで作った建築の模型を置いて講評会で発表した。講評したのは大学教授(髭もじゃ)、准教授(メガネ)、講師(腕まくり)、建築家(白髪)等々の有識者一式であったのだが、その女学生が作った案を見るや否や、会場(製図室)の空気は一変した。そして落雷した。理由はその女学生が作った案が「少女マンガ」風だったからである。その案は、その女学生が日々放っているファンシーな雰囲気に勝るとも劣らず、乙女チックであったのだ。大学教授らは一斉にその女学生に向かって罵声を浴びせた。その女学生は自分の個性の羽を広げた途端に、奈落の底に突き落とされてしまったのだ。大学教授らが「大学はディズニーランドではない、馬鹿にするな!」と言い放ったかどうかまでははっきりと覚えていないけど、大学教授らによる罵声は大体そのような内容であったと記憶している。ちなみに、その女学生は幼少の頃から「少女マンガ」が大好きで、自分でもよく描いていた。雰囲気はファンシーでも、芯がしっかりしていた。そしてその芯を大学教授らがポキッと折ってしまったわけだが、その目的は甚だ不明である。

 では次は最近の話。最近といっても、昨年(二〇一二年)の話だが、二〇一五年に開業する北海道新幹線の『新函館駅』の駅舎デザインが決定した(図-1)。この駅舎の設計コンセプトは、「自然と共に呼吸(いき)する、モダンで温かみのある駅」とのこと。また、駅舎の前面はガラス張りで、「トラピスト修道院のポプラ並木をイメージしたデザイン」であるそうだ。これを僕が初見した時の感想は、「わけがわからないよ」「なに言ってんだこいつ」等々である。特にこの駅舎がモダン様式(モダニズム)を選択している目的が甚だ不明である。何の感慨もないデザインだ。その一方、これも昨年の話だが、『東京駅』の赤煉瓦造りの駅舎が、建築家の辰野金吾らが設計した約百年前のオリジナルの姿(一九一四年)の、英国風クラシック様式に復元されて再開業した。この復元された『東京駅』は、実に多くの人々に愛されている。昨年の一二月に予定されていた『東京駅』を舞台にしたプロジェクションマッピングのイベントが、激しい混雑のために中止に追い込まれたほどの人気ぶりである。さて、では前述の『新函館駅』も百年後には、今日の『東京駅』と同じように人々に愛されている駅舎になっている、とあなたはどれだけ想像できるだろうか。僕には無理だ。更に僕は二〇世紀のモダン様式(モダニズム)の建築よりも、それ以前の世紀のクラシック様式の建築のほうが、より多くの人々に愛されやすい傾向にあるのではないかと考えていて、もしそれが事実であるならば、これは建築史上の皮肉であるとしか言いようがない。二〇世紀のモダニストたちは建築様式を改悪したということになる。

 以上、二つのプロローグを書いた。この二つの話(問題の提起)からこの先の本論は書かれている。さて、私たちはこれからどこを目指したら(後略、続きは来月の文学フリマの『ニコちく』で!)

【追記(2013/4/8)】

文学フリマの一週間前なので、冒頭の書き出しの部分の『■ プロローグ』をもう少し長めに載せておきます。

 以上、二つのプロローグを書いた。この二つの話(問題の提起)からこの先の本論は書かれている。さて、私たちはこれからどこを目指したら良いのだろうか、建築に対する人々の感情や感性は『新函館駅』と『東京駅』のどちらが望ましいと考えられ得るのだろうか。僕は確かに『新函館駅』よりも『東京駅』のクラシック様式のほうが建築のあり方としては望ましいと考えている。でも、この二者択一は極論であるし、この先の本論で「復古主義」を掲げて、前近代の様式をリヴァイヴァル(再生)すべきである、と書く気は全然ない。それよりも、モダニズムを「ハッキング」しようと思う。

 モダニズムの建築家のミース・ファン・デル・ローエは、「建築は空間に表現される時代の意志である。この単純な真理を明確に認識しない限り、新しい建築は気まぐれで不安定となり、当て所のない混沌から脱し得ない。建築の本質は決定的に重要な問題で、建築は全てそれが出現した時期と密接な関係があり、その時代環境の生活業務の中でのみ解明できることを理解しなければならず、例外の時代はなかった」と述べている。これはモダニズムを特徴づける大変有名な言葉である。よって、これを定言命法にすることで、言い換えると、モダニズムの信条を文字通りに読むことで、「復古主義」の沼を跳び越えて、やや無謀かも知れないが、現在という時代に適合する新しい建築論の構築を試みる。ただ字数に限りがあるために、どうしても駆け足になってしまうが、それはご容赦願いたい。さて、現在の「時代の意志」は何だろうか。おそらく、最も顕著であるのは「情報化時代」と呼ばれる、情報テクノロジーが生成した新しい環境世界である。『ニコニコ動画』はその代表例である。では早速、この「情報化時代」に適合する新しい建築をめざして、本論に入る。

(後略、続きは4月14日の「第十六回文学フリマin大阪」(堺市産業振興センター)、または4月28日の「超文学フリマ」(幕張メッセ)の『ニコちく』で!)

【追記(2013/4/11)】

追記です。『ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学』の表紙はこんな感じになるそうです。左下に初音ミクさんがいます。(ちなみに、本ブログ「未発育都市」のタイトルの画像も初音ミクさんですw。)*1

これは、いわゆる「ドット絵」ですね。こういう表現形式は凄い好きです。(ちなみに、「ドット絵」に関しては、本ブログの「【動画】廃村――abandoned village」の記事の後半に少し書いた。)

ついでに、僕(ノエル)が『ニコちく―「ニコニコ建築」の幻像学』に寄稿した論文の「形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして」に添付した画像も載せておきます。以前、僕が「ドット絵」的に(?)描いたアイコン建築の「バレンタインの家」です(下図)。

以上です。

では、皆さん、文学フリマへ行きましょう。

【追記(2013/4/26)】

あと、その他の僕が描いたアイコン建築は、本ブログの「・作品一覧」の記事にまとめて載せています。

*1:本ブログの「追記(2012/6/3)」の記事参照。現在の本ブログ「未発育都市」のタイトルの画像は、「「Google ChromeのキャンペーンCM」(→動画)で使われた、初音ミクの曲の「Tell Your World」(2012年)の動画(→動画)の画像です」

富山市は「第二の夕張市」となるか――「コンパクトシティ」を目指して暴走する国土交通省と富山市長

 
北海道の中央部に位置にする夕張市は「炭鉱の町」として栄えた。だが、その後「石炭から石油」へのエネルギー政策の転換などを受けて炭鉱は次々と閉山されたため、夕張市は新たに「炭鉱から観光へ」を掲げて、スキー場やテーマパークなどを次々と開設する「リゾート」化路線に邁進した。その結末は、多くの人の知るところである。施設建設に伴う累積赤字が重くのしかかって市の財政を圧迫し、2007年に財政再建団体に指定されて、夕張市は事実上、財政破綻した。夕張市ブレーキとアクセルの踏み間違えてしまったのである。

さて、富山市は「第二の夕張市」となるか。結論を先に言えば、今のところは、まだそこまでは深刻ではない。だが、早目に警笛を鳴らして、国土交通省富山市長が推進している「コンパクトシティ」政策に対して異議を申し立てること、安全に正しくブレーキを踏むように促すことは、些細なことながら、必要であると僕は考える。(僕が過去に書いた「コンパクトシティ」批判に関しては、「「コンパクトシティ」の創設は税金の無駄遣いである――自民党の補正予算案(2012年度)を批判する」(2012年12月29日)の記事を参照。)

コンパクトシティ」とは、都市のスプロール化(郊外化)を抑制して、都市の中心部に様々な施設をコンパクトに集中させた街のことである。メリットは、自動車がなくても暮らせる街になることと、それに伴ってインフラの維持費や更新費が削減できることであると言われている。自動車を運転できない若者や高齢者(交通弱者)が暮らしやすい街であるとも言われている。また、多くの場合、「コンパクトシティ」は都市計画家のピーター・カルソープによって提唱された「公共交通指向型開発」と結び付けられて、路線バスやライトレールを敷設する等によって公共性の高い交通機関の利便性の向上が目指されている。デメリットは、割愛する(山ほどある)。

富山市は現在、その「コンパクトシティ」政策を推進している。ちなみに、国土交通省富山市の関係は、分かりやすく言えば、AKB48秋元康大島優子の関係である。前田敦子青森市である。富山市は2006年に「富山ライトレール」を開業、2007年には富山市中心市街地に「グランドプラザ」(上図)、「グランドプラザ前駅」、「総曲輪フェリオ」などを矢継ぎ早に開業した。更に、北陸新幹線富山駅も建設中である(2014年開業予定)。

そのため、「コンパクトシティ」政策の実施以降の富山市の財政は厳しい状況に陥っている。予算に占める地方債の割合は年々増加の一途をたどっている。富山市の地方債は都市別ランキングの中核市の中ではワースト4位である(中核市は全国で41市ある。政令指定都市などは含まない。ちなみに、青森市はワースト3位)。富山市の市民一人当たりの借金は約58万円である(中核市の平均的な一人当たりの借金は約39万円)。また、実質公債費比率も年々増加の一途をたどっている。富山市の実質公債費比率は2007年度で11.7%、2011年度で13.9%。ちなみに、18%以上になると、地方債発行に国や都道府県の許可が必要になる。富山市の実質公債費比率は、大体、毎年0.5%ずつ増えているので、7年後の2020年に18%以上になる計算だ。

また、「コンパクトシティ」政策を推進している富山市森雅志市長は、今年の1月15日から始まった市長協議で、「財源は厳しいがしっかりとメリハリを利かせた予算編成をしていきたい」と方針を述べて、富山市の財政が厳しい状況にあることは認めている。(「富山市市長協議始まる 新年度予算財源不足93億円」(チューリップテレビ、2013年1月15日)の記事参照。)

ま、もちろん、現在の「コンパクトシティ」政策は未来へ向けた投資であって、富山市の財政は30年後には劇的にV字回復する!という可能性もゼロではない。そこまで僕は全否定しない。だが、「コンパクトシティ」政策が半ば進行した現在の状況をみると、富山市の「コンパクトシティ」政策が成功しているとは僕には全く思えないのである。富山市の森市長が暴走しているようにすら見える。例えば、2012年に作成された森市長のプレゼン資料の「コンパクトシティ戦略による 富山市型都市経営の構築」(※PDFファイル)の12頁には、「平成19年にグランドプラザオープン、中心市街地の歩行者数が着実に増加(H18→H23 56.2%増)」と書かれている(下図)。これが事実であるならば、富山市中心市街地活性化に成功しているとは言えるだろう。だが、これは事実であって事実ではない。これはどういうことなのか。その前に青森市の話をしよう。

青森市富山市と同様に「コンパクトシティ」政策を進めている都市である。青森市は「コンパクトシティ」界の前田敦子である。青森市富山市に先駆けて2001年(平成13年)に青森駅前の「しんまち商店街」の商店街入口付近に商業施設「アウガ」を建設した。「アウガ」は「コンパクトシティ」政策の成功例として国土交通省と御用学者らが絶賛した。そして、その時、青森市は「アウガ」の成功を示す証拠として歩行者数(歩行者通行量)の調査結果を使った。その調査結果によると、「アウガ」周辺の歩行者数は大幅に増加していた。大成功である。この調査結果は日本中を駆け巡って国土交通省が推進する「コンパクトシティ」政策にお墨付きを与える資料となった。さて、これは事実だろうか。確かに「アウガ」周辺の歩行者数は大幅に増加した。だが、歩行者数が増加したのはそこだけだった。「アウガ」周辺だけが増加した。そして肝心要の「しんまち商店街」の歩行者数は減少した。「アウガ」が「しんまち商店街」へ向かう歩行者の足を堰き止めた可能性すらある。これを成功と呼べるだろうか。

前述の富山市の森市長のプレゼン資料の「コンパクトシティ戦略による 富山市型都市経営の構築」(※PDFファイル)の12頁には、「平成19年にグランドプラザオープン、中心市街地の歩行者数が着実に増加(H18→H23 56.2%増)」とある。これは事実だろうか。事実と言えば事実である。だが、これは青森市の「アウガ」の時と全く同じなのだ。下図は、富山市の2011年(平成23年)の「富山市中心市街地活性化基本計画(第1期) 事後評価(中間報告)](※PDFファイル)である。これを見ると、「グランドプラザ」が開業した2006年(平成19年)以降の富山市中心市街地の歩行者数(歩行者通行量)は減少し続けていることが分かる。つまり、「グランドプラザ」周辺の歩行者数だけが増加したのである。富山市中心市街地全体では歩行者数は減少している。青森市と同じである。「コンパクトシティ」政策はうまく行っていないのである。

よって、富山市の森市長のプレゼン資料は、事実であって事実ではない。ウソではないが限りなくウソに近い記述である。注意して読む必要がある。ちなみに、青森市の「アウガ」は、多額の借金を抱えて2008年に経営破綻している。

最後に、2006年に開業した「富山ライトレール」について。「富山ライトレール」は実質的には赤字である。富山市の森市長が我先と発表している経常利益は確かに黒字なのだけど、じつはそこには富山市から補助金(税金)が注ぎ込まれているのである。補助金を入れて黒字になっているのであって、補助金がなければ赤字である。ただ一方で、富山市の森市長のプレゼン資料が示しているように「富山ライトレール」の乗車人数は増加している。鉄道は公共性が高いので赤字でも多くの市民に利用されているならば、それでも構わないのかも知れない。その判断は富山市民が決めればいい。赤字は良くないと考えるか、赤字でも公共性があれば良しとするかは価値観の問題である。それを決めるのは民主主義の手続き(民意)である。もちろん、その判断で富山市の借金が年々増加の一途をたどっているという現実も忘れずに考慮に入れなければならない。

次の富山市長選挙は2013年4月14日である。3ヶ月後である。「コンパクトシティ」政策を推進している現職の森市長を選ぶか、それとも対抗馬となる人物を選ぶかは富山市民(有権者)の良識にかかっている。また更に、この選挙は国土交通省が推進している「コンパクトシティ」政策の行く末を左右することにもなるだろう。なぜなら、富山市は「コンパクトシティ」界の大島優子であるからだ。ちなみに、「コンパクトシティ」政策を推進した青森市佐々木誠造市長(元)は、2009年に行われた青森市長選で、新人の鹿内博市長(現)に大差で敗れている。この選挙では、佐々木誠造市長(元)が推進した「コンパクトシティ」政策や経営破綻した「アウガ」の運営責任なども争点となったようである。いずれにせよ、国土交通省が推進している「コンパクトシティ」政策は危うい。早めにブレーキを踏むべきである。富山市が「第二の夕張市」になる前に。

超絶衰退する秋葉原――都市学者・クリスタラーの「中心地理論」が予言する秋葉原の未来

 
失われた20年」と言われてから既に何年も経っているのだけど、この20年間、都市環境は決して静止していたわけではない。それどころか、この20年間で都市環境は劇的に変化している。そのベンチマークとなる場所は日本中の至るところにあるのだけど、今回の記事では「オタクの聖地」とも呼ばれている東京都台東区の「秋葉原」にスポットを当ててみる。

でも、その前に、ありきたりの「秋葉原論」ではつまらないのでw、都市に関する理論を一つ紹介しておこう。ドイツの都市学者のヴァルター・クリスタラーが作った「中心地理論」である。これは大学で都市工学か建築学を専攻していれば教わる、比較的オーソドックスな理論である。ま、簡単に言えば、「レア(希少)なものほど都心に集まる」という現象を示す理論である。

例えば、最近、明治大学駿河台キャンパスの「リバティタワー」(1998年竣工)に象徴されるような高層ビル型の“都心”に立つ大学のキャンパスが増えているのだけど、それは日本が少子化社会で、学生数が減少しているからである。つまり、若者がレア(希少)な存在だからなのである。その反対に、学生数がとても多かった90年代以前には、大学のキャンパスは都心から離れた“郊外”に建設・移転されていたことを思い返せば、両者は鮮やかなコントラスト(対比)を成している。

このクリスタラーの「中心地理論」を今回の記事に合わせて商業建築(店舗)から説明すると、この理論は、レア(希少)な商品を販売する店ほど都心に集まる、ということを示している。レアな商品とは購入頻度の少ない商品のことである。その代表格は高価な貴金属(ジュエリー)である。だから、例えば、全国のどの都市でも、その都市の都心(ど真ん中)はどこなのかを知りたいならば、貴金属店がたくさんある場所を探してみればいいのである。東京なら銀座である。その反対に、レアではなくて、購入頻度の多い商品、例えば、食料品などは、家のすぐ近所のスーパーで買うことができる。よって、ここにも前述と同じコントラスト(対比)を見い出すことができる。いずれにせよ、これがクリスタラーの「中心地理論」なのである。

では、これで、この理論のインストール(頭の準備体操)は完了したと思うのでw、早速、「秋葉原」の戦後を少し追ってみた。

戦後、秋葉原は日本有数の「電気街」として栄えた。そのきっかけは秋葉原の近くに理科系(電気系)の大学があったからなのだけど、それはさておき、当時の家電製品は多くの人々にとってはまだ高価な商品だった。つまり、家電製品は購入頻度の少ないレア(希少)な商品だったのである。でも、それから高度経済成長期に入って、家電製品が人々の手に届きやすくなるに連れて、つまり、家電製品が購入頻度の多い商品になるに連れて、何が起きたのだろうか。秋葉原が「電気街」としての地位を失いはじめたのである。その理由は前述のクリスタラーの「中心地理論」で説明できることは繰り返して言及するまでもないだろう。人々は家電製品を秋葉原の「電気街」ではなくて、家のすぐ近所のチェーン店(ヤマダ電機など)で購入するようになったのである。

それでも、秋葉原は衰退しなかった。理由までは分からないけど、それはさておき、秋葉原は「電気街」から「オタクの聖地」へと変貌を遂げた。でも、忘れてはならないのは、クリスタラーの「中心地理論」が明らかにしているように、秋葉原が「オタクの聖地」となれたのは、「オタク」と呼ばれる人々がレア(希少)な存在だったからである。オタク関連商品の購入頻度は、都市圏全体で見れば、とても少なかったからなのである。

さて、ここからが本題である。現在、「オタク」と呼ばれる人々の人口は増加の一途をたどっている。「オタク」と呼ばれる人々は、もはやレア(希少)な存在では決してない。そうなると、「オタクの聖地」の秋葉原は今後どうなるのだろうか。クリスタラーの「中心地理論」は一体、どんな秋葉原の未来を「予言」しているのだろうか。その答えは、今回の記事のタイトルに書いた通りである。人々はオタク関連商品を「オタクの聖地」の秋葉原ではなくて、家のすぐ近所のチェーン店(アニメイトなど)で購入するようになるのである。「オタクの聖地」としての秋葉原は「超絶衰退」するに違いない(キリッ)。以上です。ではまた。

ところで、ここからは全くの余談になるのだけど、今月、僕は産まれて初めて、その「アニメイト」へ行ってきたw。その時の僕のツイッター@mihatsuikutoshi)の備忘録を載せておく。

■ 前日(2013年1月2日)

@mihatsuikutoshi
秋葉原についてもブログ記事書くか…。(中略)でも、その前に先にアニメイトを実際に見に行かないとなぁ。一度も行った事がない。チェーン店化する秋葉原イオンモールが「東京」をチェーン店化しているようにアニメイトは「秋葉原」をチェーン店化。

@mihatsuikutoshi
イオンモールアニメイトが入っているとは知らなかった。やはり僕の情報は古いな。ヤバイ。RT @gudachan: そうですね。アニメイトの全国への拡大が本来は物好き文化であるオタク文化の画一化を進めたところもあると思います。本来は雑居ビルの奥にある「敷居の高いお店」だったのに、今やイオンモールテナントになりつつあるし・・・

@mihatsuikutoshi
イオンレイクタウンにも入っていたとは。。 RT @gudachan: いまや10店舗がイオンテナントのようですよ! http://www.animate.co.jp/shop/

■ 当日(2013年1月3日)

@mihatsuikutoshi
アニメイト着いた。人生初アニメイト、ドキドキ…

@mihatsuikutoshi
雑誌が全部ビニール詰め。書棚がツルツル光ってる。眩しい、眩しいよ…

@mihatsuikutoshi
アニメイトの客層は若い。学生さんはまだ冬休みのようだ。男女比は半々。意外。いわゆるオタクっぽい客しかいないと思っていた、全然違った

@mihatsuikutoshi
店内のあちこちに液晶ディスプレーがある、それぞれがアニメの音楽をガンガン流している。だが音量は調整されていて音楽が重なることはない、巧みの技

@mihatsuikutoshi
陳列棚にはビニール詰めの雑誌、ビニール詰めの漫画コミック、ビニール詰めのライトノベル、CD、DVD、アニメのイラストが入った各種文房具、下敷き、消しゴム、ストラップ、などなど

@mihatsuikutoshi
店内は広告だらけ、床にもアニメのイラスト入りの広告が描かれている、天井には旗、店内に流れてる音楽がうるさい、これは「けいおん!」だな、けいおんしかわからないorz

@mihatsuikutoshi
レジ前は客が並んでいる、だがどう見ても普通の学生さん、むしろ男性客よりも女性客のほうが多いかも。何を買っているんだろう?

@mihatsuikutoshi
壁には各種イベント情報、中古品の売買情報も。アニメイトにはアニメに関する全てがあるようだ、すごい。店は決して広くはないが、膨大な情報が詰まっている。濃密なパッケージ空間。

@mihatsuikutoshi
若い男性客たちがカードの交換をしている、何のカードだ? 交換というよりはカードゲームっぽい。客の手持ちカードの束がすごい、その束を双方が持っている

@mihatsuikutoshi
何か買おうかと思ったけど、変なめまいがしてきたorz、初音ミクのグッズを探したが初心者には発見できなかった。

秋田市の古地図を集めてみた

 
明けましておめでとうございます。今年も宜しく願います。さて、年末に僕の「画像フォルダ」を整理していたら、秋田市の古地図が見つかった。昨年、本ブログの「戦いは終わらない――「中心市街地」対「大型ショッピングセンター」」(10月3日)の記事や「【車載動画】秋田市の中心市街地」(10月7日)の記事や「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」(10月22日)の記事を書いた頃に集めたのだと思います(たぶん)。ちなみに、僕の「画像フォルダ」はかなり膨れ上がっていて、男の収集癖(収集本能か?)はすごいなぁ、とつくづく思いました(汗)。という、どうでもいい話はおいといてw、では、早速、載せます。(年代順です。)

■ 「出羽国秋田郡久保田城画図」 正保元年(1644年)

上図に入れた白文字は古地図に書いてある文字をそのまま書いています。「侍町」はの町、「町」は町人の町、「足軽町」は足軽の町です。身分によって住む場所がゾーニングされています。あと、「寺」は寺、「田」は田ですw。「本丸」は久保田城(秋田城)です。上図の都市全体の大きさは、目測でw、南北方向で2.5〜3kmくらいです。

上図に入れた黄文字の「秋田駅」と「なかいち」(エリアなかいち)については、前述の「戦いは終わらない――「中心市街地」対「大型ショッピングセンター」」の記事と「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事を参照。もちろん、当時(江戸時代)にはどちらもまだありませんw。前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事でも書いたのだけど、「秋田駅」の開業は1902年(明治35年)です。「なかいち」は昨年(2012年)の7月に開業したばかりです。出来立てのホヤホヤです。

あと、その「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事では、僕は「秋田市の旧市街地(商業地)は、現在の中心市街地よりも西側の河川沿い(旭川沿い)にあったのです。」と書いています。つまり、秋田市の旧市街地(商業地)は、上図の旭川の西側の「町」のところです。ここの町人文化は江戸時代から連綿と続いているのです。

また、その記事の【追記】では「【地域経済】イオン出店計画 秋田市広小路商店街組合「協議に応じるな」 県などに要望書 [12/10/20]」(ライト2ちゃんねる、2012年10月24日)から、「(前略)藩政時代の古地図と比較すればわかるが、秋田(久保田)城下町の、本来の町人町は川の向こう側で、(中略)広小路は商業とは無縁の武家町だった。それが、近代になって、秋田駅が町人町とは反対側に出来たため、街道の往来に依存していた旧来の繁華街から、商業機能を奪い取る形で、【ザ・駅前商店街】として成立した」のレスを引用しています。文中の「町人町」は上図の「町」で、「武家町」は上図の「侍町」です。「広小路」(秋田駅の駅前商店街)は「なかいち」のすぐ北側を東西に走っている道路です。

大ざっぱなポイントは、都市の近代化過程で「鉄道駅」が旧都市部の内部ではなくて外縁(端っこ)に造られた、という事だと思います。これは青森市でも高松市でも同じです。「交通史観が示唆する市街地活性化の行く末」(大和総研、2010年7月14日、鈴木文彦)から少し引用すると、「(前略)歴史は辺境で作られる。新しいスキームを作るにあたって過去のモノとの軋轢を避けようと思えば、そのフィールドに新天地が選ばれるのも無理はない。」という事です。そして、「広小路」(秋田駅の駅前商店街)が栄えた理由は、この道路が「鉄道駅」(秋田駅)と旧市街地(町人町)を結んでいたからです。人が行き来する通り道になっていたのです。要するに、「2核1モール型」の大型ショッピングセンターの「モール」の部分のようになっていたのです。この形成パターンは青森市の「しんまち商店街」も同じです。〜と、話が外れてきたのでw、古地図に戻ります。

■ 「御城下絵図(秋田藩)」 宝暦9年(1759年)

最初に載せた「出羽国秋田郡久保田城画図」から約100年後の古地図です。上図の古地図では、「侍町」は緑色、「足軽町」は抹茶色、「町」はピンク、「寺」は白、とそれぞれ色分けされています。とても見やすいです。でも、前述したように、身分によって住む場所がゾーニング(色分け)されていたのです。更に、「侍町」では身分の高い人ほど城(藩主)の近くに住んでいたのです。つまり、出世や降格がある度に、住む場所も移動していたのです。かなりシビアです。でも、反対に、足軽は「町」にも住む事はできたようです。ま、と言っても、詳しい事は僕は知りません(ははっ…)。

また、最初に載せた「出羽国秋田郡久保田城画図」と上図の「御城下絵図」を比較すると、この約100年間で、都市全体の大きさが拡大している(南の方向に伸びている)事が分かります。おそらく都市の人口が増えたのでしょう。内閣府の「(コラム)中世以降の日本の人口の変化」(2005年)から少し引用すると、日本の人口は「(前略)慶長時代(1600年)には約1,220万人、江戸時代には、17世紀に人口が増加し、18世紀以降、おおむね3,100万人から3,300万人台で推移したと考えられている。」との事です。

では、次。

■ 「大日本管轄分地図(秋田県管内全図)」 大正4年(1915年)

先の「御城下絵図」から約150年後の古地図です。上図の「停車場」が現在の「秋田駅」です。また、久保田城(秋田城)の「本丸」が「千秋園」(現在の千秋公園)になっています。都市の近代化が始まっています。また、上図の表によると、当時(1915年)の秋田市の人口は約3万2000人のようです。ちなみに、現在の秋田市の人口は約32万人です。10倍です。あと、前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事では、「(前略)「秋田駅」の開業は1902年(明治35年)なのだけど、秋田駅前には大日本帝国陸軍(歩兵第十七連隊)の施設が占めていたので、秋田駅前が中心市街地(商業地)として栄えるのは、実質的には「戦後」に入ってからなのです。」と書いています。

古地図は、以上です。

次に、空中写真も載せておきます。下図は、上図の「大日本管轄分地図」から約50年後の国土地理院の「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧(秋田市)」(1962年)と、更に約50年後の「グーグルマップ」の航空写真です。

 

「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧(秋田市)」(1962年)は、ちょうど秋田駅の駅前や駅前商店街(広小路商店街)が栄えていた頃の写真です。前述の「【続報】「中心市街地」対「大型SC」――秋田市」の記事で書いたように、「秋田駅の駅ビル「トピコ」が開業したのは1961年」です。この頃の秋田市の人口は約20万人です。(現在の秋田市の人口は約32万人です。)

うーん。しまった(汗)。上図はトリミングしすぎたせいで、やや分かりにくいのだけど、上図の国土地理院の元の写真(→写真)を見ると、この頃はまだ都市全体が田畑に囲まれていた事が分かります。「グーグルマップ」の航空写真は、ほぼ現在の写真です。田畑が住宅地に変わっています。ま、要するに、上図の二つの写真で、「郊外化」(スプロール化)のビフォー・アフターになっているわけです。1970年代の広小路商店街については、「二〇世紀ひみつ基地」のブログの「広小路が中心商店街だった時代・1973」(2008年5月22日)の記事と「広小路ホコ天時代・70年代初頭」(2008年5月28日)の記事を参照。現在の広小路商店街については、前に本ブログの「【車載動画】秋田市の中心市街地」の記事で載せた、「【車載動画秋田市中心市街地」(2011年4月19日、superyomogi)のYouTube動画(→動画)の3分55秒頃からを参照。

最後に、「グーグルマップ」の航空写真に入れたピンクの線の枠は現在の秋田市大町です。ま、大体、冒頭の江戸時代の古地図の「町」(町人町)だったところです。旭川の西側の「秋田市の旧市街地(商業地)」です。では、現在、この場所はどうなっているのだろうか?

秋田市 夜の大町・川反近辺」(2011年3月4日、umitake)のYouTube動画(→下の動画)より。(一応、上図に入れた青線がこの動画(車載動画)の「走行ルート」です。山王大通りを東へ→右折(25秒頃)→川反通りを南へ→右折(4分35秒頃)→横町通りを西へ→右折(5分0秒頃)→大町通り(赤れんが通り)を北へ。

うーん。

これは妖しい(汗)。夜の大町はタクシーだらけですw。東京のあそこによく似ています。前に(僕の)別ブログの「Kinkyo-2」の記事で、そこに「最寄り駅がないのはなぜか?」と書いたのだけど、それと同じ事が起こっているようです。でも、この場所(秋田市大町)は、約400年前の江戸時代の「町」(町人町)だった頃から、今日のこれと同じような妖しさを、併せ持っていたんだと思います(たぶんw)。前述したように、「ここの町人文化は江戸時代から連綿と続いている」んだと思います。ま、とは言え、やはり動画だけではよく分からないので、実際に現地へ行ってみるしかないですね(こらこらw)。

ざっとネットで調べてみると、この場所(秋田市大町)は、「秋田県では一番の繁華街です。」、「市街地を流れる旭川に沿って開けた秋田市の最も賑やかな夜の街。1000軒もの店舗が建ち並ぶ東北でも最大級の規模を誇る飲食店街で郷土料理を楽しめます。」等々との事です。前述の「二〇世紀ひみつ基地」のブログの「真夏日の夕刻、川反界隈を歩く」(2012年7月31日)の記事も参照。「一酒一会」のブログの「あかい灯、あおい灯」(2009年1月24日)の記事も参照。後者から少し引用すると、「(前略)連日忙しくて、予約もなかなか取れないというお店もあるんですよ。そんなお店の共通点は、ちゃんと作った美味しいお料理と選び抜いた美味しいお酒を、お手頃価格で、楽しく食べて気持よく飲んで戴く、当たり前のもてなしをしてくれるお店です。バブル的飲食ではなく、実質的で、費用対効果をキッチリと充足させてくれるお店、と云えるかもしれません」との事です。とりあえず、以上です。

あ、あともう一つだけ。秋田市の江戸時代の「侍町」(武家町)はどんな感じだったのだろうか、と思って少し調べてみたのだけど、秋田市の東隣の仙北市角館町の「武家屋敷通り」に、藩政時代(江戸時代)の街並みが残っているようです(下図)。ま、もちろん、ここは秋田市ではないのだけどw、秋田(久保田)の城下町もこんな感じだったのではないかと思います(たぶん)。

素敵ですよね。こういうの僕は大好きです。

冬の「武家屋敷通り」の写真です(下図)。きれいです。

そして、先週の「【画像】秋田駅および秋田市内が大雪で異世界」(NAVERまとめ、2012年12月26日、キタキタ親父さん)も参照(ははっ…)。ではまたw。

「コンパクトシティ」の創設は税金の無駄遣いである――自民党の補正予算案(2012年度)を批判する

 
嫌な予感が当たった。

僕は国土交通省が推進している「コンパクトシティ」政策をブログで何度も批判している(→*1)。また、今月の衆院選の選挙期間中には自民党の選挙公約の「国土強靭化200兆円計画」を何度も批判している(→*2)。そして、前述の「嫌な予感」とは、この二つが“合体”する事である。では、昨日の日経新聞のニュースより(下記)。ま、本当は、前回の「2012年に最も読まれた記事」の記事で、今年(2012年)のブログの更新は終わりにするつもりだったのだけどw、看過できないので、取り急ぎ書いておく。

補正予算、「ハコモノ」続々復活 コンパクトシティ・用水路…
日本経済新聞、2012年12月28日)

 1月中旬に閣議決定をする補正予算の編成作業が各省庁で本格化してきた。28日は自民党の部会で、農林水産省などが補正予算に盛り込む要求項目を説明した。耐震化や老朽インフラの整備が柱だが、民主党政権では実現できなかった公共事業の上積みを模索する動きがある。

 農水省は「必要な改修工事ができず用排水路全体の2割が耐用年数を超えている」と民主党政権で減らされた予算の増額を狙っていた。(中略)国交省中央自動車道の笹子トンネルの天井板崩落事故などを受けて、全国のトンネルや道路、堤防などの点検や耐震費用の一部を補正予算などに計上する方向だ。

 さらに、徒歩圏内で生活できる「コンパクトシティ」の創設を支援する案が浮上。将来のインフラの維持費を抑えることにはつながるが、民主党政権で減らされた公共事業費を確保したいという考えがにじむ。

はっきり言おう。「コンパクトシティ」を構築しても「将来のインフラの維持費を抑えること」にはつながらない。しばしば、「インフラの維持管理費を下げるために『コンパクトシティ』化を推進しよう!」と言う人を見かけるのだけど、僕は前から不思議に思っていたのだけど、そう言う人に限って、具体的なデータ(試算)を絶対に出さないのである。それはなぜか。理由は簡単である。「コンパクトシティ」を構築してもインフラの維持管理費は、たいして下がらないからである。微々たる効果しかないのである。

これは前に本ブログの「コンパクトシティは地球に優しくない、エネルギーの無駄遣い」の記事で、「コンパクトシティ」を構築してもエネルギー消費量は16%しか減らない、と書いた事と同じ論理である。「コンパクトシティ」を構築してもインフラの維持管理費はせいぜい1割、多くても2割程度しか減らないのである。

例えば、宇都宮市の試算では、現在、郊外に住んでいる人の50%(半数)を「コンパクトシティ」圏内に移住させてもインフラの維持管理費は全体で3〜4%しか減っていない。「コンパクトシティ」化による効果を出すには、中途半端な数の人口の移住では、ほとんど無意味なのである。同様に、宇都宮市の試算では、現在、郊外に住んでいる人の100%(全数!)を「コンパクトシティ」圏内に移住させてもインフラの維持管理費は全体で約15%しか減っていない。そして、これが最大値なのである。*3

更に、前に本ブログの「【車載動画】秋田市の中心市街地」の記事のメモで引用したように、「コンパクトシティ」を構築するには「巨額の財政出動」が必要である。でも、前述したように、巨額の財政出動して「コンパクトシティ」を構築しても微々たる効果しかないのである。全く割が合わないのである。トータルでマイナスになるだろう。また、維持管理費は、維持管理を行う地元の雇用者を通じて、支払われた費用が地域内を還流する事にもなるのだけど、「コンパクトシティ」の建設費は、短期的にはもちろん地元の土建業者を潤わせるのだろうけど、中長期的には自治体はひたすら建設費の返済に追われる事になるだけである。80年代のバブル期や90年代の日米構造協議以降に建設された「ハコモノ」施設の建設費の返済に、地方の自治体がどれだけ苦しめられているのかを、よく思い起こすべきである。

大雑把に言えば、「コンパクトシティ」とは新しい「ハコモノ」施設でしかないのである。80年代や90年代には大量の「ハコモノ」施設が都心部の外側の郊外に造られた。そして一通りの施設を造ってしまったので、今度はそれと同じモノを都心部にもう一度造ろうとしているのである。「コンパクトシティ」の美名のもとに、かつて郊外に造ったものと同じモノを都心部に再び造ろうとしているのである。土建業者にとっては二度美味しい。でも、私たちにとっては二度目の重い負担である。

以上です。

と言うわけで、前に本ブログの「松谷明彦著「人口減少時代の大都市経済」からの引用集(メモ)」の記事で、松谷明彦著「人口減少時代の大都市経済――価値転換への選択」(2010年)から引用したように、「人口減少時代の財政に求められているのは、行政コストを最小限に抑える努力」なのである。また、同教授は、「日本を救う「人口流動」、地域社会は蘇る 金融機能は大阪へ移転――松谷明彦・政策研究大学院大教授(上)」(JBpress、2010年4月26日)で、「どんなケースでもダメだと言うつもりはないが、人口が継続的にずっと減少している時にコンパクトシティは意味がない。(中略)郡のサイズで「拠点分散」を検討すべきだ。その方がカネも掛からない」と述べている。これが正しい答えである。私たちが目指すべき未来の都市の形はこれである。決して「コンパクトシティ」ではない。

ではまた。

(追伸。今回のこの記事は時間の都合上、急いで書いたので、かなり端折っている。書き足りない(汗)。そのうち詳しく書きます(たぶんw)。今回のこの記事に対する意見、質問、反論、文句等々がありましたら、この記事のコメント欄か僕のツイッターに寄せてください。では、良い年末年始を。ドタバタ。)

*1:本ブログの「コンパクトシティは地球に優しくない、エネルギーの無駄遣い」、「コンパクトシティの正しい答え――中心市街地の再生は諦めて、住宅地にする」、「戦いは終わらない――「中心市街地」対「大型ショッピングセンター」」、「「コンパクトシティ」から「道の駅」を拠点とした新しい都市へ」等々の記事で僕は国土交通省が推進している「コンパクトシティ政策」を批判している。

*2:本ブログの「耐用年数を超えた高速道路の維持更新に税金は1円もいらない――笹子トンネル崩落事故を政治利用する自民党を批判する」、「有権者の力で政治は変わる――日本維新の会の街頭演説に行ってみた in 銀座」、「選挙はもういい、次は紅白だ、NHK紅白歌合戦が日本を変える――初音ミクに「千本桜」と「マトリョシカ」を歌わせろ」等々の記事で僕は自民党の「国土強靭化200兆円計画」を批判している。

*3:一応、高松市の試算では、「コンパクトシティ」化によって、インフラの維持管理費は約25%減ると出ている。でも、これは眉唾ものだと思う。ま、傾向としては、人口規模が小さい都市ほど「コンパクトシティ」化の効果はあるようである。いずれにせよ、僕が調べた範囲では、この高松市の約25%が最大値である。

2012年に最も読まれた記事

 
毎年恒例の「年末年始」がやってきた。ま、と言っても、大体、毎年のルーティーンは決まっていてw、今年もその通りに(ごく普通に)過ごすだけですけどね。

ところで、話は全然変わるのだけど、先週、「BLOGOS」の編集長からメールが届いていた。と言うか、一ヶ月半以上前に届いていた(汗)。本ブログのプロフィールの欄にブログ専用のメールアドレスを載せていた事を僕は完全に忘れていて、すごい久しぶりに開いてみたら、結構、しっちゃかめっちゃかになっていた(汗)。大変失礼いたしました。と言うわけで、本ブログの「有権者の力で政治は変わる――日本維新の会の街頭演説に行ってみた in 銀座」(2012年12月10日)の記事が「BLOGOS」(のここ)に載っています。掲載、ありがとうございます。でも、正直、なぜその記事が選ばれたのかが僕にはさっぱり分かりません。あと、僕は本ブログで「アゴラ」(池田信夫氏ほか)を度々批判しているので、僕は問題があるのではないか(「BLOGOS」と「アゴラ」は裏でつながっていたはず)とも思っています。謎です。ま、でも、そういう事をいちいち気にしていてもしょうがないので、来年(2013年)も僕はこれまで通りに書き続けます。ただ、僕のブログへの感想では、「ちょっと読みづらい」、「超読みづらい」、「引用地獄」、「文中に参照リンクと括弧が多すぎて、ほとんど読めなかった。」等々と、結構、散々なご指摘を読まれた方々からいただいているので(ははっ…)、その辺の文章力(表現力)の向上は努めていきたいと思っています。

さて、表題に書いたように、本ブログ「未発育都市」で今年(2012年)アクセス数が最も多かったのは、「超絶発展する立川市――「逆都市化」する東京」(11月18日)の記事です。「ツイッター」や「はてなブックマーク」では沢山の感想をいただきました。僕の拙ブログを読んで下さって、ありがとうございます。でも、これは結構、僕には意外でした。と言うのも、その記事では、「逆都市化」という都市論的でマニアックな現象について書いているからです。マニアックな内容の記事であれば、読者層は狭まると普通に思うのです。でも、そうではなかったのです。うーん。そう考えると、来年(2013年)の「未発育都市」はマニアックな路線で行こうかなぁ(えへへ)とか、つい色気が出てしまったりもするのだけどw、一方で、僕はこれまでブログではマニアックな話を避けていた面もあるので、そういう事は別に気にしなくても良かったという事なのかも知れませんね。

それから今年(2012年)アクセス数が2番目に多かったのは、「池田信夫(アゴラ)と上杉隆の違いが分からない――アゴラもデマ情報だらけ、訂正せよ、サイトを閉鎖せよ」(11月2日)の記事で、3番目に多かったのは、「速水健朗著「都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代」を批判する」(8月14日)の記事だと思います。これは予想通りの結果ですね。この2つは記事タイトルで煽っているので、僕の想定の範囲内です。ご迷惑をおかけいたしました。来年(2013年)は別の人を批判します(こらこらw)。あと、今年(2012年)アクセス数が比較的多かったのは、「写真でみる田園都市レッチワースの移り変わり」(8月21日)の記事と、「リチャード・フロリダ「都市の高密度化の限界」を翻訳してみた」(7月3日)の記事です。以上です。

あと、前述の「BLOGOS」の認証用にブログ専用のツイッター・アカウントを作成したので載せておきます(下記)。ま、認証用なので、ほぼ無言なのだけどw、良かったら、是非、気軽にコメントしてみてください。意見でも質問でも反論でも文句でも、ま、何でも構いませんw。ではまた。では、良い年末年始を(!)。

http://jp.twitter.com/mihatsuikutoshi